2013年10月1日火曜日

インド映画(1998~2000)

Mohabbatein(2000) モハーバッテン
Director: Aditya Chopra, Music Director: Jatin Lalit, Lyrics: Anand Bakshi
Amitabh Bachchan, Shah Rukh Khan, Aishwarya Rai, Juggal Hansraj, Jimmy Shergill, Uday Chopra, Shamita Shetty, Preeti Jhangiani, Kim Sharma, Amrish Puri, Anupam Kher


校則の厳しい名門校Gulkul。
そこへ入学した3人の青年、たくましいウダイチョプラ、魅力的なジミーシェルギル、 そしてベビーフェイスのジュガルハンスラジは、それぞれ恋をする。 しかし、Gulkulの 校長、アミター(ヴ)バッチャンは生徒達の恋愛を禁じている。彼は何十年も厳しい校則を 徹底してきた。彼に対抗するのがシャールークカーン。
彼はバイオリンをひく音楽の先生。 3人の青年の恋をシャールークカーンは積極的に応援する。
彼は以前、アミターバッチャンの愛娘アイシュワリヤを愛していた。二人の関係を 知ったアミターバッチャンは、シャールークカーンを学校から追い出した。 失意の中でアイシュワリヤは白いドレスを着て、身を投げて命を絶った。 シャールークカーンがこの学校に戻って来たのは、アミターバッチャンに愛を認めさせる ためだ。それが唯一アイシュワリヤの死に報いる方法だと信じて、、、。

Humko Humise Chura Lo Aankhein Khuli Ho Ya Ho Bandh Pairon Mein Bandhan Hai - Zinda Rahti Hain Unki -  Soni Soni - Holi Song -  Chalte Chalte

Hum Dil De Chuke Sanam (1999)
Salman Khan, Ajay Devgan, Aishwarya Rai, Zohra Sehgal, Vikram Gokhale, Smita Jaykar, Rekha Rao, Kenny Desai, Rajeev Varma, Kanu Gill, Amrik GillVinay Pathak

タイトルは「私は心を捧げ尽くした恋人」という意味。この映画はアイシュワリヤ・ライを世に知らしめたヒット作。特に有名な曲は「Nimbooda Nimbooda」。この映画がきっかけでサルマン・カーンとアイシュワリヤは一時期恋人関係だったが、後にサルマンは振られる。アイシュワリヤはその後 アビシェック・バッチャンと結婚。サルマンは未だに独身。

ナンディニ(アイシュワリヤ)は父パンディット・ダルバルの愛娘。ダルバルはインド音楽の有名な音楽家。ある日、インド人とイタリア人の両親を持つ サミール(サルマン)が父に弟子入りする。ナンディニとサミールは徐々に打ち解け、しだいに恋愛感情を持つようになる。しかし、二人の仲が父ダルバルに知 れた時、サミールは追い出されることになる。ナンディニは父の決めた相手と結婚することになる。相手はバンラジ(アジャイ・デウガン)。バンラジは、サ ミールから送られたナンディニ宛の手紙を読み、ナンディニがサミールを愛していたことを知る。バンラジはナンディニを連れてイタリアに行き、サミールの行方を捜す。ナンディニはしだいにバンラジの献身的な姿に心を開いていくが、、、。

Hum Dil De Chuke Sanam    Aankhon ki gustakhiyan    Nimbooda Nimbooda   Chand chhupa badal mein  Dholi Taro Dhol Baaje Tadap Tadap Jhonka Hawa ka

Pardesi Babu (1999)パルデシ バーブー
Govinda, Silpa Shetty, Raveena Tandon

とても人のいい貧乏な若者は、美しいモデルと出会い、恋に落ちます。やがて二人は 結婚を約束するようになりますが、ヒロインの父親は大反対。ヒロインの家はたいそうな お金持ちでした。ヒロインの父親は条件を出します。もしつりあうような大金を稼いだら 娘との結婚を考えてやると。そして主人公は一念発起し、茶畑で紅茶栽培の会社を始めます。 駅に降り立った主人公を見たクーリー(荷物運び)の男が、あなたはすばらしい顔をして いる。まだ結婚していない娘とぜひとも結婚してくださいと懇願します。 主人公が移り住んだ家にはお手伝いの女性がいました。あのクーリーの娘でした。 おっちょこちょいでも一生懸命な姿に主人公は微笑ましく思います。会社は成功し、しだいに お金持ちになります。ところが、病気になったクーリーの父が娘との結婚を涙ながらに 訴えて、人のいい主人公はどうしても断れなくなります。そこへモデルのヒロインが 待ちきれずに訪ねてきて、、、。
優しすぎて誠実すぎる主人公の心を揺らす二人の女性。どちらも味方をしたくなるような いい女で、どうしてどっちかにしなくちゃならないのと思わされる。

It happens only in India Kuchh Khona Hai Kuchh Paana Hai  Hai Nazuk Nazuk Halki Phulki Chingari  Kya Hai Pyar Bataao Naa  Pada Jeena Tere Bin Meri Jaan Jave Sajna Main Nahin Karna Tera Aitbaar

Pyaar Kiya To Darna Kya (1998)ピャールキヤトダルナーキャ
Salman Khan, Kajol, Arbaaz Jhan, Dharmindra, Kiran Kumar, Anjala Zaveri, Aashif Sheikh, Ashok Saraf, Nirmal Pandey, Tiku Talsania, Razak KhanDirectorSohail Khan

 タイトルは「愛していれば恐れるものはない」という意味。ムスカン(カジョル)とスーラジ(サルマン・カーン)は、大学で出会い、恋に落ちる。ム スカンは村の出身で、過剰に妹を守る兄のビシャール(アルバーズ・カーン)と、タクール叔父さんに育てられた。スーラジは都会育ちのお金持ち。ある日、兄 のビシャールは妹を訪ねて大学へ来る。スーラジはビシャールのことをムスカンのボーイフレンドだと勘違いして、 喧嘩になる。ある日、スーラジは、交通事故を目撃し、タクール叔父さんを助ける。タクールは感謝して、農場を手伝ってほしいとスーラジに頼む。スーラジは タクールがムスカンの叔父だとは知らずに頼みを受け入れる。兄のビシャールは妹の結婚相手を選んでいた。その相手が裏でよくないことを企んでいるとも知ら ずに、、、。

Oh Jaane Jana Jab pyaar kiya to Darna kya 


Kuch Kuch Hota Hai(1998)クッチクッチホーターヘ
Shahrukh Khan, Kajol, Rani Mukherjee
ティナ(ラニ・ムケルジー)は、亡くなる前、娘アンジャリに、8通の手紙を残していた。その手紙には、大学時代の両親 とアンジャリという友人のストーリーが明かされていた。その手紙を誕生日に読んだアンジャリ(ジュニア)は、父ラフール(シャールーク)とアンジャリ(カ ジョル)を再会させ、お互いの気持ちを気づかせる、という母の遺言を遂行しようとする。アンジャリ(ジュニア)のおかげで、ラフールはアンジャリと再会 し、お互いの気持ちにやっと素直になりかける。ところが、アンジャリには、婚約者がいたのだ。果たして母の遺言をかなえることが出来るのか、、、?

Kuch Kuch Hote Hai Koi Mil Gaya Ladki Badi Anjani hai Tujhe yaad na meri aaye

Dil Se...(1998) ディルセ
Shah Rukh Khan, Manisha Koyrala, Preity Zinta

ラジオDJの主人公は、風吹きすさぶ駅で汽車を待っていた。ふと、寒そうに布で風をしのいでいる 女性に気が付き、「チャイでも飲もう」とチャイを買いに行く。戻ってきたら、女性はもう汽車 に乗り込んでいた。進み始める汽車の窓に向かって「おい!」と呼ぶと、女性は振り返るが、 汽車は雨の中走り去っていく。運命の歯車は回りだした。主人公はその女性を見つけるたびに 追いかけるが、いつも逃げられてしまう。彼女には秘密があった。彼女はテロ組織の仲間であった。 二人の乗るバスが故障し、砂漠の中を人里へ向かう。荷物を取り、足早に去る彼女に追いかけながら、 愛を告白する。彼女は怒りながら「どんなふうに?」と聞くと、「ディルセ(心から)」と、 むりやり唇を奪う。砂漠を抜け出る道中、主人公は一人置きざり。    家に戻った主人公は、家族の 言うままお見合い結婚をすることになる。かなわぬ恋に見切りをつけようと思ったのだが、 その結婚のパーティに彼女が現れた。婚約者の友達だったのだ。再会した二人の胸は熱くなるが、 悲劇の足音は近づいていた。
あまりにも悲しすぎるクライマックス。実際にテロの絶えない社会の現実の悲惨さを感じる 映画。


インド映画(~1990年)

DIL (1990)
Aamil Khan, Madhuri Dixit

最初は学園ドラマ風だけど、途中からロミオとジュリエット。主人公とヒロインは 最初は犬猿の仲だった。主人公の父とヒロインの父はマラソンを通じて意気投合し、 息子と娘の縁談を決める。ヒロインの父はその時は主人公の父にだまされていることを 知らなかった。主人公の父は他人の身分を語っていたのだ。大金持ちの娘と自分の息子を 結婚させるために本当は貧乏なのにうそをついていたのだ。主人公とヒロインは激しく ぶつかりあいながら、しだいに惹かれあっていく。二人の気持ちが結婚に固まって来た時、 運命のいたずらか、二人の婚約披露パーティで主人公の父のうそがばれてしまう。 ヒロインの父は激怒。もちろん縁談は破談に。引き裂かれた二人はよりいっそう求め合い、 ついには駆け落ちをする。二人はヒロインの父の目の前で火の周りを回る。それは二人が 夫婦になるという儀式だ。そして、駆け落ちした二人は愛さえあればという貧乏生活を 始める。主人公も肉体労働をして一生懸命働いた。順調にいきそうになってきた時、 主人公は思わぬ事故に、、、。それから哀しい運命が、、、。
この映画で注目したいのは、インド人の結婚観。ヒロインがマンガルスーツという 結婚の証であるネックレスをどれほど大切に思っているかなど、インド特有の結婚観に触れられる。


Chachi 420チャチー チャールソービス
(1997) Kamal Hassan, Tabu

主人公は俳優、離婚調停で子供の養育権を母親に取られ、大好きな子供に会わせてもらえません。お手伝いさんを募集して いるのを知った主人公は、知り合いに特殊メイクをしてもらい、おばあさんに化けて面接に行きます。何十人もの応募者の中 からみごと合格し、お手伝いさんとして元妻の実家に入り込みます。元妻の父にプロポーズまでされそうなほど好かれます。 元妻もお手伝いのおばあさんとして仲良くなり、心の内を明かすようになります。元妻と子供と買い物に出かけて、ならずも のにけんかを売られますが、アクションはお手の物。おばあさんが男数人をこてんぱんにしてしまいました。主人公が変身し たおばあさんはとても好かれる人物で、主人公のアパートの大家さんもメロメロです。主人公はおばあさんになったり、戻っ たり、の繰り返しで大変な目にあいます。この早変わりのシーンがむちゃくちゃおもしろい。アクションあり、笑いあり、涙 ありでとても面白い映画です。
確かにロビンウィリアムズの「ミセスダウト」のぱくり(こぴー)ですが、それでもこれは見る価値あり。インド映画として とても楽しめます。

Sholay ショーレイ
1975, Director: Ramesh Sippy
Sanjeev Kumar, Amitabh Bachchan, Dharmendra, Hema, Amjad Kham, Jaya Bhaduri

ある村は、危機に瀕していた。いつ襲ってくるやも知れない盗賊の影に村人はおびえていた。 そこで腕のたつ人間を雇って村を守ることにした。そして雇われたのがアミターバッチャンと ダルメンドラ。かくして盗賊との死闘が始まる。
この設定、見覚えありませんか。そうです。黒澤監督の七人の侍に似てますよね。
雇われた二人の若者はそれぞれ村の女性に恋をする。アミターバッチャンが気になるのは、 いつも悲しげな女性。この人は未亡人で、亡くなっただんなさんは村長の息子だった。 彼女の着ている白いサリーはインドの喪服。ダルメンドラが恋をするのは、おてんば娘。 お互い惹かれあっているのになかなか素直になれません。映画の中で色の粉を使ったダンスシーン が見ものです。村長は盗賊が襲ってきても戦おうとしません。実は、村長は戦いたくても 戦えなかったのです。(その理由は映画を見てね)。村長と盗賊の首領の間には、深い因縁があったのです。 おてんば娘は人質にされ、戦いは架橋に入ります。最後に勝利するのは、、、。
若き日のアミターバッチャンとダルメンドラはむっちゃ男前。ダルメンドラは最近ちょっと太っちゃいましたが、 でも渋い役で現役でアクションもこなします。(私は勝手にインドの加山雄三と呼んでいます。) アミターバッチャンも健在で、最近はクイズの司会者としても活躍。その番組は超人気です。

Love In Tokyo
Joy Mukherji, Asha Parekh, Pran, Mehmood, Durga Khote
1966, Director: Pramod Chakravorty, Music: Shanker Jaikishan

インドを旅行した日本人の女の子は、インド人に「サヨナーラー」と話し掛けられて、なんでやねんと思ったことはありま せんか。「こんにちわ」ならわかるけど、なぜいきなり「さよなら」なのか?それはこの映画が原因です。
ダンサーである主人公は、公演のため日本に行きます。主人公は見合い話が嫌でしょうがありません。主人公は見張り役の男 の目を盗んでなんとか抜け出します。はちゃめちゃな逃走劇の中でしだいに見張り役の男と打ち解けていき、そして、、、。 ちょっとローマの休日インジャパンって感じもありますね。
この映画に出てくるミュージカルシーンは、日本が舞台になっているものが多く、日本の60年代の懐かしい景色が見れま す。それを見てインド人は、日本ってビルが多くてすごい都会だなあと言います。これは60年代であって今はもっともっと 進んでいるよ、と言ってもあんまり想像できないみたいです。「ジャパニ グリヤ」(日本の人形)というミュージカルシー ンの中で、ヒロインが着物を着ているのですが、絵に描いたようにむちゃくちゃ間違った着方をしています。小物なども、そ れは中国やろ?というものがいっぱいで、外国の間違った日本観が楽しめます。「サヨナーラー、サヨナーラー」という曲も 超有名でほとんどのインド人は知っています。インド人に「サヨナーラー」と話し掛けられたら「さよなーらー」と言ってあ げてくださいね。

2013年9月28日土曜日

ブッダガヤ母子保健プロジェクト(新生児・育児の注意点について指導byりつこさん)


9月24日、ブッダガヤ母子保健プロジェクトの活動で、ある村で母親教室を開催いたしました。今回は、ボランティアとして来てくださっているりつこさんに、新生児の育児の注意点についてご指導いただきました。りつこさんは日本で看護師をしています。母親たちが理解できるように、出来るだけ易しい言葉でご説明いただきました。毎回説明している、母親の手洗い習慣化の大切さについてもご説明いただきました。最近はポリオワクチンの普及によって、ポリオ患者の発生はほとんどなくなっているけれど、まだまだ油断は出来ません。ポリオ以外にも、目に見えないウイルスやばい菌があり、新生児や乳幼児を持つ母親は特に石鹸を使用しての手洗いをするようにご指導いただきました。

そして、新生児の体重測定と、身長測定、それから妊婦さんの血圧測定をしました。今回、完成した乳幼児用身長測定機も登場しました!大工さんに作っていただきました。身長測定機の上に赤ちゃんを寝かせて、頭を端につけ、足の裏を直角にして、板を当てて測定します。何をされるのかわからない赤ちゃんたちは大泣きし、なんと絶叫マシーンとなってしまいました!!!

今回は、りつこさんの提案で、一才未満の乳児の心拍数も測りました。一分間に110から150が新生児の正常な心拍数なのだそうです。マドゥ先生や、ルビーちゃんが心拍数測定の方法を教わりました。

りつこさんは、新生児のチェック項目を教師たちに一つ一つ説明しました。眼を見て、黄疸が出ていないか、目やにが出ていないか、感染していないか。皮膚を見て、あせもがないか、出来物がないか、トビヒになっていないか。お臍の状態も見て、乾燥しているか、じゅくじゅくしているか、でべその場合、ヘルニアになっていないか。手や足の裏の反射も確認します。そして、母親の母乳の状況も確認します。

母子保健プロジェクト記録ノートがやっと仕上がったので、さっそくレイカ先生が記入し始めました。途中まで一人ひとりの記録を記入していましたが、時間がかかるので、次回までに基本情報を記入して、次回、母親の皆さんに配布することにしました。

りつこさんが新生児のお宅を訪問した際の様子をブログに書いてくださいました。ぜひこちらもご覧くださいね!よろしくお願いします!















2013年9月15日日曜日

<インドファッション>サリー着付け教室

サリー着付け教室

①まず最初にブラウスとスカート(サヤ)を着ます。

 ブラウスはボディにフィットした形で、必ずサイズを測って 仕立て屋さんで作ってもらいます。

サリーによっては端にブラウス用の部分があり、 それを切り取って仕立ててもらいます。

それが付いていないサリーには、別売りのブラウス用の生地で作ります。

ブラウスの色は基本的にサリーと同色、 または同系色です。

たまにおしゃれで補色のブラウスを合わせる人もいます。

スカートは着物で言うといわゆる腰巻のようなもので、ブラウスと同様にサリーと同系色を選びます。

サリーは薄い生地が多く、裏が少しすけるので同じ色の方が良いのです。

②サリーの端 をお腹の右の方からスカートに ひっかけて、後ろから前に1周巻きます。


サリーの表裏に気をつけましょう。

始め(スカートに引っ掛ける部分)と終わり(肩から先で、頭にかぶせる部分)も違うものがあるので注意します。

無地や同じパターンのサリーは上下がありませんが、すその部分に模様があるサリーや、肩から先の部分に模様があるサリーは、巻く前に確認しておきます。



③頭 にかぶせて長さを計って調節します。


ひだを作る部分の見当をつけます。










④ひだを作ります。

左手の 親指にサリーをひっかけ、次に小指に引っ掛けます。

親指を抜いて、また その親指に引っ掛けます。(この時、他の指でひだを押さえています。)

薬指を抜いて、また引っ掛けます。繰り返してひだを作ります。


⑤ひだをお腹 の正面か、 少し左側に入れます。


ピンでひだを固定すると時間が経っても崩れません。

ピンはパンジャビスーツのドゥパタ(スカーフ)をとめるのと同じものです。

ひだは分厚くなるので、安全ピンではちょっときついです。






⑥サリーを後 ろから一周回して左肩にかけます。


この時、サリーの端が引きずるほど長かったり、お尻より上だったりしたら、ひだの数を増やしたり減らしたりして調節します。

ちょうど良い長さはひざの裏くらいの長さです。

家の中にいる時はもっと短くてもいいし(動きやすい)、外出する時は長めにする人が多いみたいです(見た目が良い し、男性の前で顔を隠しやすい)。




⑦胸から肩にかけて、ひだ を作って、出来上がり!


ひだは3~5回、肩の外側から内側にひだを よせていきます。

模様があれば、美しく見えるように気をつけます。

肩のひだは、飾りのついた安全ピンでブラウスといっしょにとめます。

刺繍などがある柔らかい素材の(透けるような)サリーの場合はひだを作らず、そのまま 垂らして左手にかけてもいいですね。

その場合もピンで肩のところをとめて おくとずり落ちないので便利です。


基本的にサリーは既婚者が着ますが、外国人だったり都会でなら大丈夫です。

堂々とサリーを着ましょう。

日本人は几帳面で着物のようにきっちり着る人が多いので、インド人もビックリ!!

ネパーリーと間違われるかも!?

<インドファッション>ランガ

ランガ 結婚式パーティ用ドレス

ランガはパーティ などで着るドレスです。

結婚披露パーティで花嫁や花嫁に近い妹などが着ます。

色はとくに決まっておらず、 この写真のように、オフホワイトに金の刺繍のものや、赤色系のもの、紫系のもの など色々あります。

これはサリーとは違って、上着とスカート、そして長い布の 3つに分かれています。

サリーのブラウスとは違い、上着はそでもすそも長く、たくさん刺繍がしてあります。

スカートはとても長く、歩く時は持ち上げないと 引きずってしまいます。

そして長い布は、腰から肩にかけてひだを作り、そして 頭にかぶせます。

<インドファッション>サリー

サリー 着かたの種類_シダ-スタイルとウルタースタイル

サリーは基本的には結婚した女性が着ます。

田舎では、式が済んで 初めてサリーを着るのを許されます。

サリーにもいろいろな種類があって、安いものから高いものまでピンキリです。

普段着と外出着をきっちり分けています。

普段着には安めのやわらかい綿のサリーを着ます。

丈夫で毎日洗濯できます。

外出着には絹のサリーなどを着ます。

これは洗濯すると色が落ちてしまうので、きれいにたたんでしまっておいて、よっぽど汚れたときだけ洗濯します。

インド人女性の外出

インド人女性が外出するときは、非常に用意に時間がかかります。

中流階級の場合ですが、若いお嫁さんは家の外に一歩も出てはいけません。

お祭りなどのとき に家族といっしょに出かけるくらいで、年に1、2回です。

すべての中流家庭が そうではありませんが、昔ながらの厳しい家庭では今も守っています。(私の家もそうなんです。)

ウルター(裏。シダ-の反対の着 方

最近若い女性はだいたいこの着かたをします。

映画などでヒロイン(女優)がよ くこの着かたをしているからでしょうか。

田舎では、年上の男性の前では肩から 頭にサリーをかけて顔を隠します。

家事をするときには肩から垂らしているサリーの端をお腹のところに引っかけます。

そうするととても動きやすいのです。

写真は絹のバラナシサリーです。

シダー(表。伝統的着方)

高齢の方(特に田舎の方)はほとんどこの着かたです。

私も試してみましたが、風を含みやすくとても涼しかったです。

サリーの端にお金を包んでくくったり、鍵など もくくります。

そしてそれを腰に引っかけます。

<インドファッション>パンジャビスーツ




インドファッションについて

パンジャビスーツやサリーをはじめ、インドにはいろいろな服装があります。

主に若い女性はパンジャビスーツ、結婚した女性はサリーを着ることが多いのですが、 インドは広大ですので、民族衣装も多種多様です。

今回はまずパンジャビスーツとサリー、そして結婚披露宴で使うランガという衣装を紹介します。

パンジャビスーツ


 パ ンジャビスーツは基本的には結婚前の若い女の子が着ます。

もちろん都会では何でも自由に好きな服を着てもいいという気風があるので、おばちゃんでも堂々と着ています。

パンジャビとは「パンジャーブ州の(人)」という意味で、もともとはそち らから来ているようです。

パンジャーブ州はシーク教の人が多いのですが、そう言えば知り合いの中で、シーク教の女性はいつもパンジャビスーツを着ています(気に入っているだけかもしれませんが)。

ドゥパタをつけよう!

パンジャビスーツは、ゆったりめのワン ピースと大きなズボンと長いスカーフの3点セットになっています。

このスカーフのことを「ドゥパタ」と言います。

インドは暑いのにドゥパタなんてつけていたら余計に暑いじゃないか、と私も旅行している時はつけていなかったのです。

ところが、実はドゥパタには重要な意味があったのです。

会う人、会う人につけろつけろと言われ続け、その理由を聞いたら、どうもただのエチケットではないようです。

ドゥパタをつけていないと、感覚的にはノーブラのような感じだそうです。

つまり胸のふくらみを隠すのが目的なのです。

インド人男性の感覚

インド人だけがすけべってこともないと思うんです。

ただ、特に田舎の方では、ほとんどの人が両親が決める相手と結婚するというシステムの中で、ふだん社会的に男性と女性は隔離されています。

恋愛なんて普通は許されません。

女性は家庭の中で守られていて、年ごろになると一人で外をうろついたりできません。

暗くなってから一人でうろうろしていたら、売春婦と間違えられます。

一人で旅行する女性は気をつけてください。

自分はただ散歩のつもりでも、向こうから見たらそういうことを望んでいるように思われるかも知れません。

インド人男性の中には、インド人女性に対してできないことでも、外国人、 特に日本人になら何でもできると思っている人がいます。

ビハーリーで 関西人(私のヒンディー語はなまっている?!)

ビハーリーで 関西人(私のヒンディー語はなまっている?!)

結婚する時に持ってきた一冊のテキスト。

最初の一ヶ月で必死に覚えました。

だって、お義母さんや兄 嫁さんたちはヒンディ語オンリーなんですから。

だんなさんは日本語ぺらぺらですが、仕事で寝るために帰って来るだけだし、毎日毎日家の中に監禁状態で、しかも兄嫁さんは二人とも超おしゃべり。

もう、がむしゃらに覚えるしかありません。

最初はまったくコミュニケーションが取れず、ボディランゲージを使っていたのが、1ヶ月、2ヶ月、3ヶ月と徐々 に通じるようになりました。

そして、1年経つと、どうも兄嫁さんたちの文法はおかしいと気がついたのです。

最初、自分のヒアリングが悪いせいかな、と思っていたのですが、兄嫁さんたちの言葉は、スタンダードなヒンディ語とはかなり違う。

ビハ-ル州の、ブッダガヤのこてこての方言だったのです。

それからは必 死で兄嫁さんたちの方言の法則を習得すべく努力しました。

そして、結婚して2年、めっちゃナチュラ ルなブッダガヤ語が話せるようになりました。

そんなある日、久しぶりのデリーでヒンディ語をしゃべったら、周りの人たちがおもしろがって「もっとしゃべって」と言うんです。

ちゃんと標準語でしゃべっ ているつもりなのに、文法は標準語でも、どうも発音が何となく「ビハ-リー(ビハ-ル人)」みたいだそうです。

やっぱり毎日方言の中で暮らしていると、ついついクセが出ちゃうんですね。

山形弁を話す外国の方がおられますが、私もインド人から見るとそん な感じなのかな?

日本では関西弁(京都生まれなんで す)、インドではビハ-ル弁、どちらでも方言を習得してしまいました。

インド嫁姑事情

インド嫁姑事情

世界中、どこでも同じですね、こればっかりは。

私の家も、それはもう激しい戦いが何度か繰り広げられました。

いえいえ、私は参加してないですよ。

私はみんなの意見を聞く役です。

お義母さんと、上の兄嫁さん、そして2番目の兄嫁さんがそれぞれ三つ巴なんです。

始まりはいつもたわいのないことからなんですよね。

例えば、よく食器を落とすとか。

大事にしていた鳥を檻から出したとか。

でも、それがきっかけで 普段からの不満が大爆発!

しかもインド人は声がでかい。

アクションもオーバー。

けたたましく泣き叫ぶので、ご近所さんも集まってくるし、、、。

お義母さんが「出て行け!」と言っても、兄嫁さんたちは絶対実家に帰ったりなどはしません。

それは一番恥ずかしいことだからです。

不思議なことに何日かすると何事もなかったかのような平穏な日々がまたやってきます。

そして、何かお祭りがあると仲良く歌を歌ってるんです。

うーん、ま、いいか。

爆発ディワー リーのお祭り

爆発ディワー リーのお祭り

ディワーリーというお祭りがあります。

ディワーリーまたはディバワリーと言います。

毎年9月~10 月の間に行われます。

ヒンドゥーカレンダーに基づくので、毎年日にちがずれます。

灯明のお祭りで、小さい器に紙のこよりと油をいれ、火を灯します。

それを家中特に外に面した所に置いて、ずっと消えないように、何時間か置きに油を足して回ります。

子供達は木などで小さな家を作り、それを祭壇のようにして いろいろ儀式をします。

それが終わったら屋上で爆竹の投げ合いです。

子供達もきゃーきゃー言って走り回り、兄嫁さんたちはお互いに爆竹を投げ合うし、こっ ちにも投げてきます。

本気で怖かったです。

私も負けずに 参加しようと、爆竹に火をつけましたが、投げるのが遅くて指の先で爆発!

やけどはしなかったけど、痛かった!

女性と子供達が家の中で大騒ぎしている時、男性達は仲間同士集まって、朝までお酒を飲みながらトランプでギャンブル。

いつもお祭りは女性と子供がメインで、男性はお供えのお下がりをもらうだけ。

それ はたぶん、大家族は一つの家で暮らしているので、若いお嫁さんたちの顔を見ないようにということ と、いつも家の中にいる女性達のストレスの発散をさせるため?かな?

停電

停電 (2000年ごろ)

一日の半分は停電です。

雨期はとくに多くて、雨が降りだすとすぐに停電になります。

雨期の雨はとても激しいので電線が切れて、それに人や動物が当たって感電するという事故が よく起こるから、大雨になりそうになると発電所の方から電気が止められます。

雨期は夕方から 大雨になることが多いので夜はよくろうそくやランプを使います。

うだるような暑さの中、 停電の闇の中で子供達と歌のしりとりをしたり、ランプの明かりで影絵をしたりしています。

プレゼント事件

プレゼント事件

結婚式の後、私の両親はブッダガヤの家族へのプレゼントの仕分けをしようと言い出しました。

兄嫁さんにはタオルと石鹸と、、、この子には ティーシャツをというふうに一人一人に分けて並べていました。

すると、隣の部屋で友達と飲んでいただんなさんが来て、その様子を見て怒り出しました。

「どうしてそんな失礼なことをするんだ。 家のボスはお母さんだ。お母さんがこの人にはこれが必要だということが一番わかる。 あなた達が一人一人に渡すのはとても失礼だ。お母さんを無視している。誰に何を 渡すかはお母さんが決めることだ。」とぷんぷんです。

私と両親は訳がわからなくて、せっかくプレゼントを持ってきたのに、どうして怒られなくちゃならないんだろうと思いました。

この時が最初の日本文化とインド文化の衝突でした。

両親は一人一人に対して何がいいか考えて持ってきてくれましたが、インドにはそんな習慣はありませんでした。

インドは大家族文化の中で、経済的な長はお父さん、家の中の長はお母さんというように ボスとしての役割が強いのです。

また、たくさんの嫁たちを従わせるために、物資の配給という お母さんの役割は権力を保つために必要なのです。

そのため、インドではプレゼントはすべてお母さんが受け取り、お母さんがそれぞれに配分します。

そのおかげで家族という 群れの統率が取れるのです。

<インド花嫁のオキテ>サリーなど身だしなみのオキテ

*毎日サリーを着る。(毎日洗濯したもの) インド花嫁のオキテ

田舎では結婚したらオンリーサリーです。

私は日本人だからということでたまにパンジャビスーツを着 ていますが、普通はサリーのみです。

まだ一枚しかサリー を持っていないころに、同じサリーを2日続けて着ていたら、お手伝いの女の子が「だめ~!一度ぬい だら新しい(洗濯した)サリーしか着ちゃダメ」と絶叫し ました。

確かに汗をいっぱいかく、こんな熱い国だから、衛生的に理にかなっています。

感覚的には、 同じ服を2日着るより、破れている服に着替えるほうがいいらしいです。


*花嫁は2~3年は赤いサリーを着る。 インド花嫁のオキテ

赤は花嫁さんの色。

黒いサリーを気に入って買ったのですが、2年がまんしました。

逆に白はお葬式の 色で花嫁さんは絶対に着てはいけません。

だんなさんが亡くなったら、真っ白、もしくは地味なサリー を着ます。


*外出する時は、シンドゥール、マンガルスーツ、 チュリー、ビンディー、 ピアス、指輪(アングッティ)、足の指輪(ビチヤ)、 アンクレット(パイヤル)、腕時計を忘れるべからず。 インド花嫁のオキテ

シンドゥール(額につける赤い粉)、マンガルスーツ(結婚の象徴のネックレス)、ビンディー(眉間 につけるシール)、ピアス(両耳と鼻(左))、指輪、ビ チヤ(足の指輪)、パイヤル(アンクレット)はもちろん毎日必ず身に付けます。

でも外出の時は特に厳しくチェックされます。

一度、腕時計が止まっていたの でつけないで出かけようとすると、壊れていてもいいからつけなさいと言われました。

腕時計を持っているということは一つのステイタスのようで、「出かける 時は忘れずに」なんだそうです。

<インド花嫁のオキテ>家の外に出るべからず

*孫ができるくらいまで一人で一歩も家の外に出るべからず。インド花嫁のオキテ

なぜか?

それは、孫がたくさんできるくらいになると、一人で外へ出ても、レイプされる心配や浮気を することもあまりなくなるからです。

つまり、結婚した女 性を家の中に閉じ込めておくのは、守るということと、浮気防止の意味があるのです。

もちろん、これは田舎の中流以上の家庭の文化で、貧しい家庭の女性は外に働きに出ますし、高い教育を受けた都会の女性も仕事を持つことがあります。

兄嫁さんたちにどうし て外に出ないの?と質問したら、「家にいるのが好きだから。洗濯や食事の準備で忙しいし、この家のしきたりだし、自分の母親たちもそうしてきたから。外を 一人で歩くのは恥ずかしいことだ。」と言いました。

でも、本心はやっぱり外に行きたいみたいで、あるお祭りの日に兄嫁さんがみんなでお寺にお参りに行こうと提案したのです。

ところが、もう一人の兄嫁さんが出産直前ということと、人がたくさんいすぎるという理由で、お義母さんは許しませんでした。

みんなで 外に出かけるチャンスも1年に1~2回しかないので兄嫁さんは泣いていました。


*窓から外をのぞいてはいけない。 インド花嫁のオキテ

結婚して2~3年はあまり人に顔を見せてはいけないのです。

若いから?それもありますが、人に見られると、悪い魔法にかかると言われました。

この手のしてはいけないことってきりがないくらいたくさんあります。


*昼間は屋上に上がってはいけない。 インド花嫁のオキテ

窓から~と同じく人に姿を見られないようにということです。

もし屋上にいるところを通りがかりの男 性に見られたら、もしかすると目をつけられて誘拐されたり、、、ありうる話なんですよね、これが。


*年上の女性の前では頭をサリーで隠す。 インド花嫁のオキテ

尊敬の意を表しているのだと思います。

何度も言いますが、これは田舎の習慣です。


*年下でも若い男性の前では肩をサリーで隠す。 インド花嫁のオキテ

もちろん、子供は含みません。

20代からの若い男性とは話はしてもOKですが、肩は隠さなくてはい けません。

<インド花嫁のオキテ>顔を見せるべからず

*だんなさんのお兄さん、お父さんに顔を見せるべから ず。 話してもいけない。インド花嫁のオキテ

結婚式の日から突然、お兄さんやお父さんに顔を見せたり、しゃべってはいけない と言われました。

そういえば、それまででもお兄さんは日本語ぺらぺらなのに、全然 話をしなかったなと思いました。

一つの家に住むので、若い年下の女性である弟の嫁に 目移りしないためのルールだと思われます。

お兄さんが家にいる時はトイレに行くのも 大変です。廊下にお兄さんがいないことを確認して走ります。

もし途中でお兄さんが 出現したらとりあえずすぐ近くの部屋に隠れます。

そしてお兄さんが行ってしまうまで じっと身をひそめます。

廊下に出る時はサリーで頭を隠しているのですが、その姿も 見られてはいけないのです。

ずっとおにごっこをしているみたいです。

私のだんなさんには 2人のお兄さんがいるので大変です。

長男のお嫁さんはお義父さんにだけ気をつければいいのです が、三男、四男、五男の嫁はもう大変。

ちなみに、長男の嫁は「バルキー」、次男の嫁は「マンジュリー」、 三男の嫁は「サンジュリー」と言います。

ですから、一番目の兄嫁さんのことを 「バルキーバービージー」、二番目の兄嫁さんのことを「マンジュリーバービージー」と 呼んでいます。


*だんなさんより年上の男性に顔を見せるべからず。 インド花嫁のオキテ
お兄さんやお父さんだけでなく、年上の男性全般に顔を見せないようにします。

お客さんが来た時も、それがだんなさんより年上の場合は隠れます。

その人より 年上の女性、もしくは子供達に食事やチャイを運ばせます。

結婚式の時、親戚みんなで ビデオに写ろうということになりましたが、お義母さんはなかなか部屋に入りません。

それは、親戚の中にお義母さんよりも年上の男性がいたからです。

だんなさんの14歳だった妹が新しい学校に入学する時、その学校の先生が面接に来ました。

私はもちろん立ち会うつもりで待っていましたが、先生が家に到着したとたん、私だけ違う部屋に 呼ばれました。

先生は年上の男性なので先生が帰るまでここに隠れていなさいと言うのです。

先生は教育を受けている人だからだいじょうぶ、とむりやり面接をしている部屋に入りました。

先生も最初はびっくりしたものの、英語でしゃべってくれました。

その先生は一時期妹の家庭教師として家に来てくれました。

お義母さんは「男の先生とアルカが二人きりでは心配だから、あなたもいっしょにいて欲しい」と 言うので、私も授業に参加し、ヒンディ語まで教えてもらいました。

<イ ンド花嫁のオキテ>女性は最後に食べるべし

*女性は最後に食べるべし。 イ ンド花嫁のオキテ

インドの田舎では食事は男性が最初に食べ、子供たちが食べ、そしてその残り物を 女性が食べます。

インド女性は世界で一番寿命が短いとどこかで聞いたことがあります。 私の家ももちろん男性、子供、女性の順番です。

インド人は昼食を家に食べに帰る人が 多いのですが、私の家もそうです。

お父さん、お兄さん2人、そしてだんなさん、20歳の 弟のうち、全員が食べ終わるのを見届けてから、女性たちが食事をします。

一人でも 仕事の関係などで帰ってこないと、その食事は抜きになります。

家族24人分の食事を 作っている2番目の兄嫁さんは一番ハードな仕事なのに食べません。

食事を抜くのは 体に良くない、食べようと言っても、やはり誰もその習慣を破りません。

とくにインド人は 時間があってないようなものなので、昼食といっても3時4時になり、男性たちが帰宅 するのは夜中でそれから夜ごはんになります。

そんなのにつきあっていたら体を壊してしまうので、最近は私一人、日本にいる時の時間の間隔で毎日同時刻に3食しっかり食べています。

インドの花嫁失格かな?

<インド花嫁のオキテ>シンドゥール・マンガルスーツ・チュリー

*シンドゥールは毎朝必ずつける。 インド花嫁のオキテ

シンドゥールとは、結婚した女性が額につける赤い粉のことです。

額の髪の生え際で、 ちょうど分け目の所につけます。結婚式の儀式の中で、新郎が新婦の額に初めて シンドゥールをぬります。

その時は、囲いをして、周りに見えないようにします。

田舎では、結婚して一年間は、少しオレンジがかった赤色のシンドゥールを使い、 一年たったら、深い赤色のシンドゥールを使います。

生え際から上に向けて5センチ位 たっぷりとつけます。

お風呂で頭を洗った後はシンドゥールが落ちてしまっているので、つけるまでは誰にも顔を見せられません。

一方、都会の方では、結婚しても必ずしも シンドゥールをつけなくてはならないということはありません。その人の自由です。

デリーであんまりたくさんつけていたら、田舎ものだと笑われました。

ブッダガヤに 帰るともっとつけなさいと言われます。ですから、都会ではほんの少しだけつけて、ブッダガヤに着く直前にたくさんつけるようにしています。

シンドゥールはだんなさんが 生きている限りつけます。

シンドゥールをつけているということは結婚しているという証ですが、都会の教育を受け自立している女性たちは男女差別の一例としてあえてつけなくなっているようです。

*マンガルスーツはだんなさんが生きている限りはずす べからず。インド花嫁のオキテ
マンガルスーツは、結婚した女性が身につけるネックレスです。

それはいろいろな 素材のものがありますが、一般的には金と黒い小さな石のものが多いようです。

生活レベルによってそれぞれのネックレスを花婿が花嫁に送ります。

マンガルスーツは だんなさんが生きている間は一生見につけなければならず、修理に出している時などは 人前に出ることができません。


*チュリーをつけずに水も食事も取るべからず。 インド花嫁のオキテ

チュリーは、細いガラス製の腕輪のことです。

これも結婚した女性がつけます。

独身の女性がたまにおしゃれでつけることもありますが、つけるのは1~2個くらいです。

結婚した女性は6~10個ほどつけます。

結婚して1,2年は赤いチュリーが主です。

7月から8月の雨期のシーズンには緑色のチュリーをつけます。

雨で草木が生い茂る緑の シーズンだからです。

サリーやパンジャビスーツも緑色の人が増えます。

インド人女性は 手の骨が細いので腕にぴったりのサイズですが、日本人の私は一回り手が大きいようで、 いつも一番大きいサイズのチュリーにします。

私は寝ている間は壊してしまいそうで外して 寝ますが、本物のインド人はつけたままです。

チュリーが自然にほとんど壊れてから新しい チュリーをつけます。

兄嫁さんはチュリーはだんなさんへの愛情だと大切にしています。

ある日私はうっかりチュリーをつけるのを忘れたまま朝食を食べていました。

そこへ 兄嫁さんが水を持ってきてくれました。

すると、なんてことをしてるんだとしかられました。

「私達はチュリーをつけないと一口も食べないし、チャイも水も飲まない」と。

<インド花嫁のオキテ>結婚後、だんなさんの名前は一生言わない

*結婚後、だんなさんの名前は一生言わない。 <インド花嫁のオキテ>

結婚前は、欧米式に呼び捨てにしていただんなさんの名前。

結婚後も 同じように呼んでいたところ、周りにいた人たちは変な顔をします。

兄嫁さんたちに聞くと、結婚したらだんなさんの名前は決して口にしては いけないということでした。

先に教えて欲しかったと言ったら、 日本もそうだと思っていたそうです。

テレビもほとんど見ない兄嫁さんたち、 日本の文化が自分たちの文化とどう違うのかまだあまり知らないようでした。

数ヶ月後、日本大使館に行った時、だんなさんの名前を聞かれたのですが、 絶対一生言ってはいけないと言い聞かされていた私は言うことができませんでした。

それで代わりに名刺を見せて、これが主人の名前です、と言ったところ、 怪しまれてしまいました。

日本に里帰りをして、友達にだんなさんの名前 は?と聞かれた時、精神的ショックから声にできませんでした。

だんなさんは、「あなたは日本人だから日本にいる時や二人だけの時は 名前を言ってもいいよ」と言ってくれたのですが、兄嫁さんやお義母さん の真剣な言葉を思うとなかなか言えません。

少しずつリハビリ(練習)して、 ワンテンポおけば言えるようになりました。

もちろん、インド人の前では 今でも言いません。

代わりに「メレパティジー」(私のだんなさん)と 言います。

ところが、ある日デリーでアーユルベーダのエステを受けていた 時のことです。

エステティシャン二人といろいろ話をしていて、 「だんなさんの名前は?」と聞かれました。

「インドのしきたりだから 言えない」と言ったら、若いエステティシャンは、「そんなのがあるの?」 と年上の人に聞いたのです。

その年上のエステティシャンは「昔はそうだった のよ。今でも田舎では言わないけれど」と言うのです。

私は愕然としました。

日本人である私が必死で守っているのに、列記としたインド人であっても デリーのような都会に生まれ育った若い人は知らなかったのです。

それから友達になったデリーの人たちはやはりみんな平気でだんなさんの 名前を口にします。

ブッダガヤでは絶対できません。

インドはとても広くて たくさんの人種や宗教や文化があって、貧富や都会か田舎かの差が大きくて 、なんだか大昔と現代の時空が入り乱れて一緒に存在しているようです。

ちなみにインド人全般に言えることですが、年上の名前はできる限りいわず、 どこどこのおじさんとか、なになにちゃんのお父さん、という言い方をします。

結婚後女性は電話で自分の名前を名乗ってはいけません。

なになにちゃんの お姉さんです、と言います。(都会はもう変わっていますが。)

インド花嫁のオキテ

インド花嫁のオキテ

結婚式の後、私はインド人になりました。国籍はもちろん日本人のままだけれど、家族みんなからインド人として扱われました。赤ちゃんに一から教えるように、インド人はこうするんだよと教えてもらったのです。
前の日までパンジャビスーツでうろうろしていた日本人は、結婚式を境に、サリーを着たインド人になりました。
注)ここに挙げるオキテはブッダガヤの 中流家庭のものであり、インド全部に当てはまるわけではありません。 
* 結婚後、だんなさんの名前は一生言わない。
* シンドゥールは毎朝必ずつける。
* マンガルスーツはだんなさんが生きている限りはずすべからず。
* チュリーをつけずに水も食事も取るべからず。
* 女性は最後に食べるべし。
* だんなさんのお兄さん、お父さんに顔を見せるべからず。 話してもいけない。
* だんなさんより年上の男性に顔を見せるべからず。
* 孫ができるくらいまで一人で一歩も家の外に出るべからず。
* 窓から外をのぞいてはいけない。
* 昼間は屋上に上がってはいけない。
* 年上の女性の前では頭をサリーで隠す。
* 年下でも若い男性の前では肩をサリーで隠す。
* 毎日サリーを着る。(毎日洗濯したもの)
* 花嫁は2~3年は赤いサリーを着る。
* 外出する時は、シンドゥール、マンガルスーツ、チュリー、ビンディー、 ピアス、指輪(アングッティ)、足の指輪(ビチヤ)、 アンクレット(パイヤル)、腕時計を忘れるべからず。 

2013年9月11日水曜日

テロの思い出

実は、私自身がテロに巻き込まれたことはないのですが、家族の目の前でテロが起こったことがあります。
 
http://en.wikipedia.org/wiki/29_October_2005_Delhi_bombings
 
2005年10月、ディワリのお祭りのころ、デリーのサロジニナガルで爆発が起こりました。
 
当時、長男が5歳になり、デリーで幼稚園に入園させるため、デリーに住み始めたころでした。
 
その日、テレビでニュースを見ていて、ほぼライブでテロのニュースを見ました。
 
主人はディワリのお祭りのため、知り合いのガイド仲間とお酒を飲んでいました。
 
その場所が、テロが起こったサロジニナガルのすぐ近くだったのです。
 
慌てて主人に電話をかけましたが、携帯はスイッチオフになっていました。
 
その夜、主人にずっと電話をかけながら、翌朝まで一睡もせず安否を心配していました。
 
結局、翌朝10時ごろ、主人がひょっこり帰って来ました。
 
「携帯つながらなかったけど、テロ、大丈夫だった?」と聞くと、「ああ、テロだねえ。ごめん、保険屋がうるさく電話かけてきたから、携帯切ってた。」というのん気な主人の返事に拍子抜けしたのを覚えています。
 
お祭りだから、家族へのプレゼントを買いにサロジニナガルのマーケットに行っているんじゃないか、と心配した自分がバカらしく思えました。
 
http://en.wikipedia.org/wiki/13_September_2008_Delhi_bombings
 
2008年のデリーのテロでは、弟が間一髪で助かりました。
 
当時同居していた主人の末の弟ラジーブは、日本語の専門学校に通っていて、その日もコンノートプレイス近くの学校から帰宅途中、いつものようにメトロ(地下鉄)のほうへ歩いていました。
 
すると、突然、目の前で爆弾が爆発しました。
 
慌てて、走って行くと、その先でもまた爆弾が爆発しました。
 
そして、まだ動いていた地下鉄の電車に飛び乗って、命からがら家に戻りました。
 
電車の中で心臓がバクバクして、手の震えが止まらなかったそうです。
 
http://en.wikipedia.org/wiki/2008_Mumbai_attacks
 
ムンバイのテロの起こったタージホテルに、実はテロの起こる3ヶ月前に私たち夫婦は立ち寄っていました。
 
ムンバイの親戚の家に行って、途中お茶を飲みに立ち寄っただけでした。
 
お茶を飲みながら、「誰でもこんな高級ホテルに入れるし、目の前は海だし、海からテロリストかパキスタンの軍隊でも攻めてくるかも、、、。しかも、すぐ近くはムスリムがいっぱいいる町(テロリストの隠れ家になるという意味)だし、、、。」と考えながら、怖いな、と思っていました。
 
その3ヵ月後に、まさにその場所でテロが起こり、ニュースを見て背筋が凍る思いがしました。



テロが頻繁に起こっていたころ、買い物に行く時、娘がついていく、と言いました。私は「ニュース見たでしょ!バザール(マーケット)に行って爆弾が爆発したら死んじゃうから、家にいなさい。」と娘に言いました。
すると、娘は、「マミーもくうばあちゃんの子供やん。マミーも死んだらあかんやん。」と言いました。
眼からうろこでした。
自分は死んでもいいけど、子供は死なせたくない。
と思っていましたが、自分も母の子だった、という視点を娘は与えてくれました。
娘はそのころ、5歳くらいだったと思います。
インド人はテロが起こっても外出を控えたりしません。
すべての事象は、神様から与えられた自分の人生のストーリーに書かれていれば起こるし、書かれていなければ起こらない。
インド人は、スーパーポジティブ思考。
究極の天然のーてんきなのか、諸行無常を達観した不動の境地なのか、、、。
テロで犠牲になった場合、戦死したというような認識です。

2013年9月10日火曜日

ブッダガヤで7月に起こったテロについて

ブッダガヤで7月に起こったテロについて

2013年、7月7日、早朝、ドーン!ドーン!という大きな音で眼が覚めました。前日、パトナからブッダガヤへ4時間かけて車で移動していたので、疲れていてぐっすり眠っていたにもかかわらず、眼が覚めてしまうくらい大きな音でした。エレクトリシャン(電気技師)がエアコンでも落としたのかな?(窓に埋め込み式の大きなエアコン)とか、結婚式の行列が夜到着できずに朝到着したのかな?(結婚式の際、爆竹や打ち上げ花火をするので、爆音に慣れてしまっています)などど考えながら、また眠りにつきました。

そして、普段通り起床し、朝の身支度をしていると、スタッフから電話がありました。ヒマラヤの友人から電話があり、「ブッダガヤでテロが起こったそうですが大丈夫ですか?!」というメッセージをもらいました。「まさかっ?!?!?!」と思いつつ、テレビをつけると、見慣れたマハーボディ寺院の映像が、、、!コルカタの友人も電話をくれ、安否を気遣ってくれました。自宅としているマハマヤホテルからマハーボディ寺院は徒歩一分、まさに目と鼻の先。そんな近くにいて、テロだと気付かない、爆音に慣れすぎた自分にびっくりしました。

それから数日、インド中からジャーナリストが駆けつけ、マハーボディ寺院の周りは中継者だらけになりました。当日午前中、ビハール州知事ニティッシュ・クマールが現場を視察しました。そしてソニア・ガンジーや内務省の大臣まで、続々と要人が視察に訪れました。要人が次々に現地を訪問するので、地元警察は要人警備の対応でてんてこ舞いでした。NIA(テロなどを取り締まる特別警察)の捜査チームは、なんと、天候不良のため、ガヤ空港に降りられず、コルカタへ引き返した、というニュースもありました。

デリーやムンバイなどの都市は、常にテロの危険があるため、テロリストに対する捜査は徹底していて、対テロの特殊警察は非常に優秀だという印象があります。しかし、いざ、予想外の場所で起こった場合の対処の遅さに、今更ながらびっくりしました。
実は、予想外と言っても、昨年からブッダガヤが狙われている、という情報は発表されていて、現地的にはマハーボディ寺院の警備を厳重にしているつもりだったようです。
もともと金属探知機も壊れていて作動していなかったり、CCTVカメラの映像を見る機器も整っていなかったり、外国人の私からすれば、アゴが外れそうな、あまりにもインド的な状況だったのでした。
ここ数年、ビハール州は平和になりすぎて、警察もゆるくなってしまっていたのかも知れません。
私が嫁いだ頃は、ゲリラが多く、警察も緊張感があったように思います。

現在、NIA(http://en.wikipedia.org/wiki/National_Investigation_Agency)が中心となって調査続行中です。テロ組織などから犯行声明が出ていないこと、爆発物が小規模なものであったこと、置いてあった場所が寺院や仏像を直接破壊する場所でなかったこと、爆発した時間帯が人が少ない時間帯であったこと、ブッダガヤの複数の場所に爆弾を設置していたのでローカル情報に詳しい人物が関わっているだろうということなど、地元ではイスラム系テロ組織のやり方としては不可思議なことが多いという意見が多く、州政府に反対する政治組織などがテロに見せかけて仕組んだのではないか、など様々な推測が飛んでいます。

マハーボディ寺院は、テロの数日後から寺院を通常通り開放しています。事件の影響で、海外からの巡礼者の数は少なめですが、徐々に通常とおりに戻りつつあります。事件後、寺院周辺やゲートの警察官が増員され、寺院へ入るにはボディチェックを受けるようになっています。また、携帯やカメラは持ち込み禁止になり、ゲートで預けるようになっています。

テロ事件後、行政は寺院周辺の安全確保に力を入れており、以前から立ち退きを要請していた寺院手前の土産物店などに、再度立ち退きの通告を出しています。

今回の事件をきっかけに、インド中央政府もブッダガヤの安全や発展のために力を入れるようになりました。世界遺産のある国際観光都市として、開発に拍車がかかりそうです。

地元の人間の感覚として、実は、テロが起こった場所は、2年間くらい、すごく安全なんです。警備が厳しくなり、再びテロを起こすのが難しいからです。

ということで、今、ブッダガヤ、特にマハーボディ寺院は安全な状態です。ご心配いただきました皆さんどうかご安心ください。

テロの爆発で負傷された僧侶のお二人の早い回復をお祈りいたします。


 以下、AFP通信より転載___________________________

http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2954694/11014456

【7月8日 AFP】インド東部ビハール州(Bihar)の州都パトナ(Patna)に近い仏教の聖地の1つ、ブッダガヤ(Bodhgaya)で7日、複数の小規模な爆発が発生し、僧侶2人が負傷した。歴史的寺院には被害はなかったという。地元警察が発表した。
 紀元前531年に仏教の開祖、釈迦がその下で悟りを開いた菩提樹があるとされるブッダガヤの大菩提寺には、世界各国の仏教徒が訪れる。ビハール州の警察署長はAFPに対し、「神聖な菩提樹は無事で、損傷は受けていない」と語った。
 警察幹部のS. K. バラドワジ(S. K. Bharadwaj)氏によれば、「7日早朝に小規模な爆発が8回連続して発生し、2人が負傷した」という。また、この他にも2つの爆弾が見つかり、寺院の敷地内で信管を取り外す処理が行われた。その1つは、高さ24メートルの有名な仏像の近くにあったという。
 マンモハン・シン(Manmohan Singh)首相は、国連教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産(World Heritage Site)にも登録されている寺院で起きた爆発を強く非難。「神聖な場所に対するこのような攻撃は、決して許されるものではない」と述べた。
 アニル・ゴスワミ(Anil Goswami)内相は爆発を「テロ攻撃」だとしているが、インドPTI通信(Press Trust of India)によると、現在のところ犯行声明は出されていない。
 インドでは、仏教徒に対する攻撃はまれだが、ミャンマーやスリランカ、バングラデシュでのイスラム教徒と仏教徒の衝突を受け、周辺各国でも緊張が高まっている。(c)AFP/Imran Khan
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卒業生、クリケッターを目指す!

8月29日、第一期卒業生プレームジート君を、隣の州、ランチーに送り出しました。
 
彼はこれからプロのクリケッターを目指してトレーニングを受けます。
 
クリケッターになるのは、彼の子供の頃からの夢でした。
 
IIT受験塾に通う彼が、クリケッターのトレーニングを受けることは、賛否両論で、教師たちとも話し合いをしました。
 
勉強は一度離れてしまうと、再度ついていくのが大変だからです。
 
せっかく12年生まで勉強に励んで来た努力も、六ヶ月のトレーニングの間に勉強が遅れてしまいます。
 
「今が最後のチャンスなんです」と言って、彼は私の所へ何度も相談に来ました。
 
校長と相談し、クリケットのテストをして、彼が校長に勝ったらトレーニングに行くことを許可しよう、ということになりました。
 
クリケットのテストをした結果、、、、校長先生が勝ってしまいました。
 
私も校長も、これで諦めがつくだろうと思っていました。
 
ところが、彼は諦めませんでした。
 
トレーニングの申し込み期限の二日前まで説得に来ました。
 
私は彼の情熱に負けました。
 
トレーニングの許可を出す代わりに、条件を付けました。
 
ランチーでも塾に通い、勉強も続けること、という条件です。
 
プロになれるのは、ほんの一握りしかいないこと、六ヵ月後、上のリーグへのテストで落ちることもあるということ、現実の厳しさについて話しました。
 
彼は、初めて親元を離れて、自分で下宿を探し、塾も見つけました。
 
トレーニング代は驚くほど安かったのですが、それでも彼の家族の一ヶ月の生活費の半分かかります。
 
衣服を運ぶバッグも、教師から借りました。
 
教師たちは私が彼に許可を出したことを、優しすぎると思ったと聞きました。
 
でも、実際は、私は彼に現実の厳しさを学んでもらいたいのです。
 
夢を夢のままにしておくよりも、夢を実現しようとして、失敗してしまうことのほうがよほど心に負担がかかります。
 
夢のままにしておけば、いろいろな条件を理由にして自分の実力をごまかすことが出来ます。
 
自分自身、夢に向かって何度も挑戦し、何度も挫折した経験があります。
 
それらは痛い思い出ですが、人生の足腰を鍛えるいい機会になったと思っています。
 
どんな状況でも最善を尽くして、もし傷ついても、また前を向いて進んで行く、そんな強い人になってほしいです。
 
6歳のころから見ているので、ほとんど母親のような気持ちで送り出しました。
 
 


2013年8月31日土曜日

卒業生たちの結婚

2013年5月、ピンキー先生の結婚式から始まり、立て続けに卒業生の女子3名の結婚式がありました。5月はインドの結婚式のシーズンの一つで、インド中で結婚式が行われる時期です。裁縫の授業のアシスタントをしてくださっていたピンキー先生は、20代半ばの年齢で、家庭での花嫁修業を十分積み、適齢期での結婚を望んでいらっしゃいました。相手が決まり、とても喜んでいました。もちろん、お相手は親戚が紹介し、両親が決めた男性です。
そして、卒業生たちの結婚式や婚約式に出席しました。卒業生たちは18歳。インドでは女性は18歳以上、男性は21歳以上でないと法律上結婚が禁止されています。彼女たちはぎりぎり18歳で、結婚は合法的に認められます。18歳になるまで、結婚しなかった彼女たちは、幼児婚の風習に勝利したことになります。彼女たちは大学まで進学出来ました。

インドの田舎では法律で禁止されている幼児婚が未だに行われています。ブッダガヤ周辺の村でも一般的です。村では2度結婚の儀式を行うこともあり、一度目は子供の間(5歳から8歳くらい)、2度目は女の子が生理が始まった時(11歳~15歳くらい)で、生理が始まるまではたいていの場合親元にいて、生理が始まれば嫁ぎ先に住むようになります。結婚相手は親が決めます。同じカースト間の結婚を維持するためにこのような風習が行われてきたのだと思います。自然に恋愛感情を持てば、相手は同じカーストとは限らない、むしろその可能性は低いので、恋愛感情を持つ思春期になる前に、親が強制的に同じカーストの相手と結婚を決めてしまう、のだと思います。

これまで、何人もの女子生徒たちが13歳から15歳の間に結婚させられ、学校をドロップアウトしました。13歳で結婚させられた子は2児の母になり、そのうち一人はスーリヤ校に今年入学しました。16歳で結婚させられたSちゃんは、大学入学のための試験はなんとか受験させてもらえたものの、すぐに嫁ぎ先に引き取られ、大学進学は断念しました。成績も良く進学を希望していたのに、親が強制的に結婚させたため、今でも結婚を受け入れられないで苦しんでいるようです。

私たちは教師たちと一緒に、生徒たちや保護者たちに機会あるごとに幼児婚の問題点や、インドの結婚に関する法律について説明して来ました。18歳で結婚する卒業生たちと、その親は、私たちの話を理解し、私たちとの約束を守ってくれたのでした。

20代半ばのピンキー先生は自ら一生懸命花嫁修業をして、お見合いの相手に気に入ってもらえるように頑張っていました。18歳で結婚した卒業生たちは、不安な気持ちやとまどいがありながらも、あきらめと希望の入り混じった感じで親の決めた結婚を受け入れました。

ほんの数年の違い。
2年から5年、心と体が成長するまで待ってあげられたら、どんなにか幸せな結婚を迎えることが出来たことか、、、。

結婚相手との新しい生活、嫁ぎ先での生活、彼女たちが幸せに暮らすことが出来ますように、、、!
祈るような気持ちで彼女たちを送り出しました。













2013年8月10日土曜日

ボランティアスタッフ・りつこさん

8月1日から、ボランティアスタッフとしてりつこさんがスーリヤ校に来てくださっています。
りつこさんは日本で看護師をされています。
スーリヤ校でのボランティアは、日本語教師として、そして、村の母子保健プロジェクトのお手伝いをしてくださいます。
さっそく、生徒たちの村へ、家庭訪問に一緒に行きました。
ほんわかとした優しい雰囲気のりつこさんは、教師たちや生徒たちとすぐに仲良くなりました。
これから2ヶ月間、よろしく御願いします!






2013年4月18日木曜日

スーパー30(IIT受験塾特待生)試験、奨学生に4名合格!

4月17日、今日、スーリヤ校教師たちから報告を受けました。

パトナのIIT受験塾の特待生スーパー30選抜試験の最終結果が出たのです。

なんと!スーリヤ校卒業生4名が、成績上位者286名の中に入りました!

学費全額免除のスーパー30の枠には入れませんでしたが、この4名は受験塾への入学許可と共に、部分的に奨学金を授与される資格を得ました!

他に5名が奨学生の対象は外れたものの、入学資格を得ました!

この試験はビハール州全土から2万5千名の学生が受験し、その中には超優秀私立校の生徒も大勢受験しました。その中で成績上位者286名の中に4名が入ったということは、ものすごいことです!

特に高得点を取った生徒は、意外な生徒でした。

彼らは私が家庭訪問に行くと、いつも畑に行っていて、農作業をしていました。

母親が病気で亡くなった子。いつも母親が病気で寝込んでいて、母親の代わりに男の子だけれど料理をして弟妹を育てている子。どの子も生きていくぎりぎりの生活の中で、学校の給食で栄養を取っていました。

彼らは貧困から抜け出すために、家族を幸せにするために、未来を見つめて、こつこつ、こつこつと勉強を積み重ねて来ました。

私はこの素晴らしい報告を受けて、涙が止まりません。

彼らは、2年後、IIT(インド工科大学)合格を目指して、エンジニアリングの試験を受けます。

パトナの受験塾に入学すれば、優秀な講師陣が講義をするので、まじめな彼らは必ず成功するでしょう。

将来、エンジニアになって、いいお給料をもらって、家族においしいものをいっぱい食べさせてあげようね!

彼らの努力に敬服すると共に、これからの進学を全面的に支援することを決意しました。




2013年4月17日水曜日

裁縫教室コース・スタート!(職業訓練プロジェクト)

4月16日、スーリヤ・バハルティ・スクールにて、裁縫教室の六ヶ月コースをスタートしました。

これまでも、スーリヤ校などで、村の女性たちに裁縫を教えてきましたが、人数もばらばらで時間もばらばらでした。

裁縫の担当の教師やアシスタントスタッフたちと話し合った結果、裁縫教室として、六ヶ月のコースを開き、コース修了者には修了証書を渡そう、ということになったのです。

裁縫教室の場所として予定していたのは、スーリヤ校の前の校舎、隣の村の現在の公民館でした。ところが、先月、ある問題が起こったのです。

いつものように母子健康教室を開催し、その際、以前数名から裁縫教室の要望があったので、受講者を募集したところ、村の政治家タイプの女性が先導して、「裁縫教室は開かせない!裁縫教室を開くよりも、孫をスーリヤ校に入学させろ!」と集団でおしかけてきたのです。

私はその日、別件がありその場にいませんでしたが、母子保健プロジェクトと裁縫教室を手伝ってくれている教師たちから、後でその様子を聞きました。

その女性はなんと棒まで振り回していたとか!「孫を入学させないと棒で叩く!」と叫んでいたそうです。

レイカ先生は機転を利かせて、「私たちは裁縫と母子保健プロジェクトのスタッフです。スーリヤ校の入学に関しては関係ありません。受け入れられる生徒数は限られています。あなたの孫を入学させてあげる代わりに、今現在、兄弟数名が通っているなら一人だけにして、他の子は辞めさせましょうか?」と言ったところ、その女性はひるんだそうです。

この事件(?)を聞いて、裁縫教室の場所を、村の公民館から、スーリヤ校内に変更したのでした。

六ヶ月のコースは、40名限定です。一部と二部に分かれ、20名ずつ教えます。今日はコースを受講する村の女性たちが約40名集まりました。受講者の中には、スーリヤ校の卒業生もいます。去年の卒業生や数年前に退学して母親になっている卒業生もいます。

彼女たちを見ていると、2001年に開校したときのことが蘇ってきました。体は大きくなっても、無邪気さは変わりません。彼女たちの笑顔に囲まれ、時間が戻ったような錯覚を覚えました。