2020年9月29日火曜日

家族の愛と生徒・友人たちの祈り

 



病気になり、日本で緊急入院することになり、
心の底から感じたのは「感謝」。

家族の愛と、生徒や友人たちの祈りに。


助けようと、助かって欲しいと思ってくれる人たちがいる。

それを心の底から感じた。

祈りのパワーというのは、本当にすごい力があると思う。

みんなの祈りに動かされて、
奇跡的に日本までたどり着き、治療が間に合った。

失明は免れ、髄膜炎も治まってきた。

祈ってくれている人たちのために、
しっかり治療したい。


6歳の次女をインドに置いてくるのは辛かった。

ビデオコールする度に次女は泣いていた。
(今は少し慣れて、お兄ちゃん(次男)と遊んでいる。)

長女は一番大変。

弟と妹の世話と、犬2匹の世話。

オンラインで日本語教師のバイトも手伝ってくれている。

大学受験の準備もしている。

2年前に大病しているから、長女が疲れないか心配。


それでも、彼らをインドに残して、
日本に来なくてはならなかった。

私は感じていた。

このまま死ぬのだろう、と。


9月5日、インドのティーチャーズ・デイ。

私はひどくなる頭痛の中、必死でビデオを編集していた。

たぶん、これが最後のビデオになると思っていた。

これまで育ててきた生徒は約500人。

彼らに、何かを残しておきたかった。



インドの一番貧しい地域で暮らすということは、
病気になったら死ぬ時。

私は22年間、そのつもりでいた。

だからこそ、健康でいることに気をつけていたつもりだ。

インドの医療はこの20年間で飛躍的に発達し、
デリーなどの都市部では最先端の治療が受けられる。

しかし、私が住んでいるのはデリーから約1000キロ離れた、
インドで一番というほど貧しい地域、ビハール州。

盲腸でも死んでしまう地域だ。

医療が行き届かない地域で、結核治療へのアドバイスを
村人たちに行ってきた。

新生児の発育測定や、母親たちの育児相談・健康相談をしてきた。

そんな私が病で倒れてはシャレにならない。

なんとしても、復活して、みんなを元気付けたい。


入院前にはほとんど見えなかった目も、
ステロイド療法が効果を奏し、
三日後には視力1.0まで回復した!

ステロイド治療の影響で骨粗鬆症になることがあるので、
整形外科で骨密度測定。

なんと!

インド22年生活で、骨はボロボロか???

と思いきや、

「平均以上」でした!!!

インドの日差しのおかげか?

しいたけ食べてないのに、なぜだろう?

私は強い!

しっかり治療して、必ず復活します!

みんな、ありがとう〜!






















2020年9月27日日曜日

日本で緊急入院!網膜剥離と髄膜炎(原田病)

羽田空港から京都の実家までYさんに車で送っていただいた。

時々痛み止めを飲みながら、いろいろ話していたが、

頭痛のためちゃんと話せていたかわからない。


夕方4時頃、自宅到着。

母が池のところまで走って迎えに来てくれた。


寝たきりの祖母に挨拶をしたかったが、

何か病気を移してはいけないので我慢。


夕方、シャワーを浴びると急に眠気に襲われ、ベッドにダウン。

しばらく寝ていたようだが、手足の力が抜け、真っ白。

手が震え、気分が悪くなり、必死で居間へ。

たぶん低血糖を起こした。

(髄膜炎のせいだったかも知れない)


夜中のテレビのような感じザーザー。

ひどい耳鳴り。頭が割れそうだった。

頭の中が工事現場。

頭のCPUがシャットダウンしそうな感じ。

夕食を何とか食べて、しばらくしたら落ち着いた。

今朝、インドの糖尿の薬を飲んで、お昼にうどんを食べて

それきり食事をしていなかったので、低血糖を起こしたのだと思う。

実は低血糖のほうがすぐに命を落とす危険がある。

お花畑が見えかけていた。


頭痛薬でごまかしつつ、両手で頭を抱えて朝まで痛みを我慢。

一睡もできなかった。

翌朝、自宅から1時間ほどの大きな病院へ。

父がそこの眼科がいいからと勧めてくれた。


初診受付で症状を説明すると、

眼科と皮膚科と総合内科の診察を受けることになった。

(頭皮と耳が非常にかゆくて湿疹ができたいたので、

ヘルペスかと思っていた。)


それぞれの科に問診票を提出。

検査があるので眼科からスタート。

視力検査。虹彩を広げる薬を点眼。

次第に暗かった映像が少し明るくなる。

しばらく待って目の中の撮影や測定。

2時間ほど待ち、初診の医師の診察。


診察は1分ほどで、

「原田病で間違い無いと思います。」と診断された。

「網膜剥離と髄膜炎が起こっています。

メラニン色素を敵だと思って攻撃するアレルギー反応で、

メラニンがある部分が炎症を起こしています。

髄膜にはメラニンがたくさんあるんです。

すぐに入院しましょう。」とのことだった。


老眼になったとばかり思っていたので、網膜剥離と聞き、正直驚いた。

確かにこれだけ見えなくなるとは、老眼とは恐ろしいものだと思っていた。


もともと視力は2.0か1.5だったので、

普段の10%も見えておらず、とても不安になった。

老眼や視力の悪い人たちの気持ちが初めて分かった。


入院する前に、さらにPCR検査を受けた。2時間ほどかかった。

陰性で、すぐに入院手続きに入った。


入院病棟の部屋のベッドで、背骨から髄液を抜いて検査。

横向きに膝を抱えて丸くなる。

麻酔が結構痛い。

その後の髄液を抜く時、ぐいぐいと圧迫感。

初めてです、と伝えたけど、その時思い出した。

確か、次女の帝王切開の時の部分麻酔の時も

こんなだったんじゃないかな。

担当医の医師にこれまでの病歴を聞かれたが、

頭が痛すぎて、よく思い出せない。

その夜、頭痛薬とアイスノンで翌朝まで耐えた。


本来なら、網膜の血管などもっと詳しく調べるため、

造影検査をしなくてはならない。

しかし、私は甲殻類のアレルギーがあるので、

造影剤にアレルギー反応を起こすかも知れない。

それで、造影検査はしないことになった。


翌日、昼頃、早速ステロイド点滴治療が始まった。



続く。



2020年9月26日土曜日

JALでインド脱出・日本緊急帰国 空港でコロナ抗体検査

車椅子で飛行機入り口まで移動。

月に2、3便のJAL臨時便がデリーから羽田へ出ている。

運良く予約できて助かった。

ほとんど見えなくなった目と、死にそうなほどの頭痛と耳鳴り。

まさか、網膜剥離と髄膜炎になっているとは、、、。

もし臨時便が出ていなかったらどうなっていたか、、、。

満席で乗れなかったら、、、。

考えると冷や汗が出る。

JALに搭乗すると

「みなさん、お帰りなさい」

とのアナウンス。

もうここから日本なんだと感じて泣きそう。


トイレが後方になくて探した。

機内食、魚の丼。まずお蕎麦から。

一口目で思いっきりわさびだったらしく、頭激痛、涙。

目が見えないと色々大変。

久々の日本食、美味しかった。


目が悪いのと頭痛で映画を見る余裕無し。

せめて音楽を聴こうと画面を触るが表示が読めず

虫眼鏡と勘で洋楽ヒットのDJをかけることができた。


横のシートが全部空いていたはずが、

食事が終わって横を見るとインド人のおっさんが寝転んでいた。

しかも、途中から足をこちらに向けて。

足の臭いが臭くてたまらなかった。


頭痛で一睡もできず。

朝食に軽食が出た。


羽田空港に到着して、早速車椅子で移動。

ぐるぐる廊下を移動。

空港の端から端までという感じ。

羽田空港、こんなに広かったのかと驚いた。

日本人の女性空港スタッフさんがずっと車椅子を押してくださった。

感謝。


唾によるコロナウイルスの抗体検査を受ける。

早朝(インドは夜中の時間)だったので唾をためるのに時間かかった。

梅干しとレモンのポスターが貼ってあった。

2時間ほど結果が出るのにかかると聞いていたが、

車椅子だからか、30分ほどで結果が出た。

結果は陰性。

同行してくださっているYさんも陰性で、すぐに空港を出られた。

何度も移動方法を確認された。

(海外からの帰国者は、公共の交通機関の使用が出来ない。

また、自宅やホテルで2週間の隔離生活をする。

私の場合、容体が急を要したので、緊急で翌日病院へ。)


ゲート出口でYさんのお父様がお出迎えくださった。

Yさんの車を持ってきてくださった。

「大変ですね。でも、奇跡を起こしていつか奇跡の映画に出られたらいいですね。」

と励ましていただいた。

Yさんの運転で京都の実家前まで送っていただいた。感謝。


帰国のための飛行機がすぐに見つかり予約できたこと。

Yさんが同じ飛行機で付き添ってくださったこと。

Yさんは東京へ転勤だが、ご実家が関西で、

転勤前に実家に一度帰ることになっておられ、

京都の私の実家まで車で送ってもらえたこと。


まさに、一つ一つに奇跡が重なっていた。


実家に到着した夕方、これまでで一番体調が悪くなった。


続く。


2020年9月25日金曜日

インド脱出!視界10% 網膜剥離と髄膜炎で緊急入院しました!

実は今、日本にいます。

網膜剥離と髄膜炎で日本の病院で入院しています。

原田病だそうです。

幸いにも失明は免れ、髄膜炎も治ってきています。

新型コロナウイルスの影響で、インドは段階的にアンロックしていますが、特にビハール州はまだロックダウンの最中です。

その中での緊急帰国、どうかお許しください。

長女が私の様子があまりにも酷いので、どうしても日本で治療する方がいいと、背中を押してくれました。

最初に予約した飛行機はキャンセルで、JALの日本人救済便で帰国することが出来ました。

羽田空港でコロナの抗体検査を受け、陰性で、入国出来ました。

病院でもさらにPCR検査を受け、陰性で入院することが出来ました。

インド脱出の様子と、闘病生活をブログでお伝えしたいと思います。

同じような症状の方に、少しでも参考になれば幸いです。

日本に住む長男がパソコンのフォントを大きくしてくれました。

現在は視力もだいぶ回復しております。


*********

視界10% インド脱出

インド3月からロックダウン
オンラインクラス・スタート(7クラス担当)
ロックダウン生活
洗濯・パソコン業務・会議・授業(または次女のオンラインクラス)・昼食調理・授業・授業・技能実習生相談・洗濯取り込み・授業・夕食調理・パソコン業務

6月〜8月 生理が止まらない。初めてのすごい量の出血。
地元のクリニックで止血剤と鉄剤を処方してもらう。

それでも出血が止まらないので、8月22日頃、産婦人科で診察、
止血剤や栄養剤・鉄剤をもらう。飲んで1日で出血が止まる。
翌日、朝から急に視野がぼやける。頭痛がひどくなる。

一週間経ってもどんどん視力が低下。
眼科で診察を受けて、感染症か老眼だろうと言われ、
抗生物質とビタミン剤を処方される。

9月初旬、視力がどんどん低下。
部屋が暗い。パソコン画面が見づらい。
頭痛がひどくなり、授業を休む。

9月12日、人間の顔が小さく、歪んで見える。ピカソの絵。
右目がほとんど見えない。左目はかすかに見える。



長女が日本の病院に行くように勧める。
飛行機を予約してくれた。アムステルダム経由の関空行き。

13日、パトナへ主人が送ってくれた。インディゴでデリーへ。
パトナ空港の中、レイアウトが変わっていて表示も読めず、慌てた。

フェイスシールドとマスク配布。

デリーに到着し、ゲート出口でスタッフに
「目が見えません。助けてください。」とお願い。
車椅子を出してくれた。国際線チェックインへ車椅子で移動。
チェックインに時間がかかり、結局、アムステルダムまではコンファームが取れているが、アムステルダムから関空への飛行機が支払いエラーになっていた。
長女に連絡し、何度もやり直したり、別の飛行機を調べたりしてもらった。
主人の弟のカードでも試してもらったが予約できなかった。(後でわかったが、関空行きの飛行機が今月中キャンセルになっていたらしい。)

夜中2時にカウンターがシャットダウン。

車椅子で空港外まで出される。
外の車は危険なので、下の階のプリペイドのタクシーを予約。
レモンツリーホテルまで頼んでいるのに、そういうホテルはコロナの陰性証明書がないと宿泊許可されない、などなどうんちくを言って、安くて安全なホテルの知り合いがいるから、と言われ、空港のプリペイドタクシーだから、犯罪行為は滅多にしないだろうと思い、信頼することに。

タクシーの運転手はヒゲの感じからムスリム。
タクシーの予約表を写メで主人や娘に送る。
運転手がヒソヒソ電話で話していた。
「1万ルピーくらいは取れるんじゃないか。」と言っていた。
「うわ!ぼられるな。」

タクシーが止まった場所は空港近くの下町。
ごちゃごちゃ並んだ建物のうち、ホテルの看板がある建物へ案内される。
工事中だった。
一泊1万6千ルピーと言われるので、高すぎる、違うところ探す、と強気で言う。
すると、9600円まで値下げしてくれた。(6400ルピーくらい)
それでも高すぎだが、夜中3時にどうしようもないので、了解した。

すると、ホテルスタッフがこちらへと、ホテルの外へ。
本館が工事中だから、何件か隣のホテルを案内するという。

ついていくと、ただの雑居ビル。
小さなホテルの看板は付いているが、ただ狭いビルの真ん中に階段があるだけ。
目が悪いことに気づかれないよう、大胆な足取りで階段を上る。

小さなカウンターがあり、そこから屋上へ案内された。
ホテルの名前は「ラグジャリーホテル」。
屋上に無理やり作られた一部屋。
施錠を確認し、宿泊を決意。
ボーイさんがエアコンをつけてくれたが、ほとんど効かなかった。
虫やヤモリがいないか気になりつつ、疲れていたためそれでも寝られた。

頼んでいた朝ご飯は、トーストバタージャムとオムレツとコーヒー。
運ばれて来たのはパラターとアチャールとコーヒー。
仕方がない。

主人がNさんに連絡してくれて、Nさんが日本帰国予定のYさんに連絡してくださり、飛行機の情報を教えてくださった。

早速予約しようと思ったが、私のインド携帯では国際電話がかけられないので、日本の家族に連絡。
長男が電話やネットで予約してくれ、父が飛行機代を振り込んでくれた。感謝。

主人の弟が本物のレモンツリーホテルを予約してくれた。
午後から移動。主人がホテルにコンプレイン。
ホテル側が無料でレモンツリーホテルまで送ると約束。
実際には、元の運転手を呼び、料金は私が支払った。
体調が悪い時にもめたくないので、そのまま。

本物のレモンツリーに到着。
チェックインの用紙が全く読めない。
大きな虫眼鏡の、超拡大部分を当てても、後半の細かい文字が全く読めない。
仕方なく受付のスタッフに読んでもらう。
部屋のキーを渡されたが、コロナのせいか、スーツケースがなかったせいか、案内係は来なかった。
一人でエレベーターで移動。

そこから部屋を探すのに一苦労。


表示板や部屋の番号を虫眼鏡で見るのだが、肝心な真ん中部分がグレイ色で消えている。
何人かの清掃スタッフに部屋を聞きながら行くと、廊下の奥の右の奥の一番遠い部屋だった。

綺麗で清潔で安心。緊張が一気に解けた。
主人と弟ラジーブに感謝。

食事はルームサービスで。毎回電話での注文が大変だった。
目が悪いという説明を毎回しなくてはならなかった。
(誰かメモしてくれ)でも美味しかった。

ラジーブの友人シャンブーさんが頭痛薬を買って届けてくれた。
大変助かった。
インドの頭痛薬は効き始めるのに時間がかかるが4〜5時間効く。
日本の頭痛薬は即効で聞き始めるが3時間ほどで痛みが戻ってくる。
痛み止めなしで動けない状態。

携帯で連絡を取ろうとするが、虫眼鏡でもよく見えない。
一生懸命見ようと右目で超拡大部分で文字を凝視すると、
ブチブチッという音がした気がして、
その部分が丸くグレイになり、余計に見えなくなった。

ホテルに3日ほど滞在し、いよいよ出発の日。
ロビーでシャンブーさんを待つ。
声からは30代の太い人を想像していたが、若くて背の高い細身の青年だった。
綺麗な奥さんと一緒に来てくださった。
チェックアウトをお手伝いくださり、タクシーで空港まで送ってくださった。
空港の入り口でYさんと待ち合わせ。
連絡するとすぐ近くにいらっしゃった。(私は見えていなかった)
シャンブーさんご夫妻とお別れ。感謝。

Yさんと空港内へ。カウンターで早速車椅子をお願いする。
車椅子を押してくれるスタッフと話す。
コロナの影響で、労働時間は同じなのに、給料が半分カットされたと言っていた。
こちらの状況(ロックダウンで半年ホテルも教室もほとんど収入無し。
検疫センターに指定されたから休んでいたスタッフを呼び戻し、受け入れ準備した。
しかし、検疫の客はほとんど来ない。
50名ほどの従業員の給料は最低限出している。)を話すと、
ちょっと同情してくれたのか、最後までチップを要求されなかった。


続く