2013年9月28日土曜日

ブッダガヤ母子保健プロジェクト(新生児・育児の注意点について指導byりつこさん)


9月24日、ブッダガヤ母子保健プロジェクトの活動で、ある村で母親教室を開催いたしました。今回は、ボランティアとして来てくださっているりつこさんに、新生児の育児の注意点についてご指導いただきました。りつこさんは日本で看護師をしています。母親たちが理解できるように、出来るだけ易しい言葉でご説明いただきました。毎回説明している、母親の手洗い習慣化の大切さについてもご説明いただきました。最近はポリオワクチンの普及によって、ポリオ患者の発生はほとんどなくなっているけれど、まだまだ油断は出来ません。ポリオ以外にも、目に見えないウイルスやばい菌があり、新生児や乳幼児を持つ母親は特に石鹸を使用しての手洗いをするようにご指導いただきました。

そして、新生児の体重測定と、身長測定、それから妊婦さんの血圧測定をしました。今回、完成した乳幼児用身長測定機も登場しました!大工さんに作っていただきました。身長測定機の上に赤ちゃんを寝かせて、頭を端につけ、足の裏を直角にして、板を当てて測定します。何をされるのかわからない赤ちゃんたちは大泣きし、なんと絶叫マシーンとなってしまいました!!!

今回は、りつこさんの提案で、一才未満の乳児の心拍数も測りました。一分間に110から150が新生児の正常な心拍数なのだそうです。マドゥ先生や、ルビーちゃんが心拍数測定の方法を教わりました。

りつこさんは、新生児のチェック項目を教師たちに一つ一つ説明しました。眼を見て、黄疸が出ていないか、目やにが出ていないか、感染していないか。皮膚を見て、あせもがないか、出来物がないか、トビヒになっていないか。お臍の状態も見て、乾燥しているか、じゅくじゅくしているか、でべその場合、ヘルニアになっていないか。手や足の裏の反射も確認します。そして、母親の母乳の状況も確認します。

母子保健プロジェクト記録ノートがやっと仕上がったので、さっそくレイカ先生が記入し始めました。途中まで一人ひとりの記録を記入していましたが、時間がかかるので、次回までに基本情報を記入して、次回、母親の皆さんに配布することにしました。

りつこさんが新生児のお宅を訪問した際の様子をブログに書いてくださいました。ぜひこちらもご覧くださいね!よろしくお願いします!















2013年9月15日日曜日

<インドファッション>サリー着付け教室

サリー着付け教室

①まず最初にブラウスとスカート(サヤ)を着ます。

 ブラウスはボディにフィットした形で、必ずサイズを測って 仕立て屋さんで作ってもらいます。

サリーによっては端にブラウス用の部分があり、 それを切り取って仕立ててもらいます。

それが付いていないサリーには、別売りのブラウス用の生地で作ります。

ブラウスの色は基本的にサリーと同色、 または同系色です。

たまにおしゃれで補色のブラウスを合わせる人もいます。

スカートは着物で言うといわゆる腰巻のようなもので、ブラウスと同様にサリーと同系色を選びます。

サリーは薄い生地が多く、裏が少しすけるので同じ色の方が良いのです。

②サリーの端 をお腹の右の方からスカートに ひっかけて、後ろから前に1周巻きます。


サリーの表裏に気をつけましょう。

始め(スカートに引っ掛ける部分)と終わり(肩から先で、頭にかぶせる部分)も違うものがあるので注意します。

無地や同じパターンのサリーは上下がありませんが、すその部分に模様があるサリーや、肩から先の部分に模様があるサリーは、巻く前に確認しておきます。



③頭 にかぶせて長さを計って調節します。


ひだを作る部分の見当をつけます。










④ひだを作ります。

左手の 親指にサリーをひっかけ、次に小指に引っ掛けます。

親指を抜いて、また その親指に引っ掛けます。(この時、他の指でひだを押さえています。)

薬指を抜いて、また引っ掛けます。繰り返してひだを作ります。


⑤ひだをお腹 の正面か、 少し左側に入れます。


ピンでひだを固定すると時間が経っても崩れません。

ピンはパンジャビスーツのドゥパタ(スカーフ)をとめるのと同じものです。

ひだは分厚くなるので、安全ピンではちょっときついです。






⑥サリーを後 ろから一周回して左肩にかけます。


この時、サリーの端が引きずるほど長かったり、お尻より上だったりしたら、ひだの数を増やしたり減らしたりして調節します。

ちょうど良い長さはひざの裏くらいの長さです。

家の中にいる時はもっと短くてもいいし(動きやすい)、外出する時は長めにする人が多いみたいです(見た目が良い し、男性の前で顔を隠しやすい)。




⑦胸から肩にかけて、ひだ を作って、出来上がり!


ひだは3~5回、肩の外側から内側にひだを よせていきます。

模様があれば、美しく見えるように気をつけます。

肩のひだは、飾りのついた安全ピンでブラウスといっしょにとめます。

刺繍などがある柔らかい素材の(透けるような)サリーの場合はひだを作らず、そのまま 垂らして左手にかけてもいいですね。

その場合もピンで肩のところをとめて おくとずり落ちないので便利です。


基本的にサリーは既婚者が着ますが、外国人だったり都会でなら大丈夫です。

堂々とサリーを着ましょう。

日本人は几帳面で着物のようにきっちり着る人が多いので、インド人もビックリ!!

ネパーリーと間違われるかも!?

<インドファッション>ランガ

ランガ 結婚式パーティ用ドレス

ランガはパーティ などで着るドレスです。

結婚披露パーティで花嫁や花嫁に近い妹などが着ます。

色はとくに決まっておらず、 この写真のように、オフホワイトに金の刺繍のものや、赤色系のもの、紫系のもの など色々あります。

これはサリーとは違って、上着とスカート、そして長い布の 3つに分かれています。

サリーのブラウスとは違い、上着はそでもすそも長く、たくさん刺繍がしてあります。

スカートはとても長く、歩く時は持ち上げないと 引きずってしまいます。

そして長い布は、腰から肩にかけてひだを作り、そして 頭にかぶせます。

<インドファッション>サリー

サリー 着かたの種類_シダ-スタイルとウルタースタイル

サリーは基本的には結婚した女性が着ます。

田舎では、式が済んで 初めてサリーを着るのを許されます。

サリーにもいろいろな種類があって、安いものから高いものまでピンキリです。

普段着と外出着をきっちり分けています。

普段着には安めのやわらかい綿のサリーを着ます。

丈夫で毎日洗濯できます。

外出着には絹のサリーなどを着ます。

これは洗濯すると色が落ちてしまうので、きれいにたたんでしまっておいて、よっぽど汚れたときだけ洗濯します。

インド人女性の外出

インド人女性が外出するときは、非常に用意に時間がかかります。

中流階級の場合ですが、若いお嫁さんは家の外に一歩も出てはいけません。

お祭りなどのとき に家族といっしょに出かけるくらいで、年に1、2回です。

すべての中流家庭が そうではありませんが、昔ながらの厳しい家庭では今も守っています。(私の家もそうなんです。)

ウルター(裏。シダ-の反対の着 方

最近若い女性はだいたいこの着かたをします。

映画などでヒロイン(女優)がよ くこの着かたをしているからでしょうか。

田舎では、年上の男性の前では肩から 頭にサリーをかけて顔を隠します。

家事をするときには肩から垂らしているサリーの端をお腹のところに引っかけます。

そうするととても動きやすいのです。

写真は絹のバラナシサリーです。

シダー(表。伝統的着方)

高齢の方(特に田舎の方)はほとんどこの着かたです。

私も試してみましたが、風を含みやすくとても涼しかったです。

サリーの端にお金を包んでくくったり、鍵など もくくります。

そしてそれを腰に引っかけます。

<インドファッション>パンジャビスーツ




インドファッションについて

パンジャビスーツやサリーをはじめ、インドにはいろいろな服装があります。

主に若い女性はパンジャビスーツ、結婚した女性はサリーを着ることが多いのですが、 インドは広大ですので、民族衣装も多種多様です。

今回はまずパンジャビスーツとサリー、そして結婚披露宴で使うランガという衣装を紹介します。

パンジャビスーツ


 パ ンジャビスーツは基本的には結婚前の若い女の子が着ます。

もちろん都会では何でも自由に好きな服を着てもいいという気風があるので、おばちゃんでも堂々と着ています。

パンジャビとは「パンジャーブ州の(人)」という意味で、もともとはそち らから来ているようです。

パンジャーブ州はシーク教の人が多いのですが、そう言えば知り合いの中で、シーク教の女性はいつもパンジャビスーツを着ています(気に入っているだけかもしれませんが)。

ドゥパタをつけよう!

パンジャビスーツは、ゆったりめのワン ピースと大きなズボンと長いスカーフの3点セットになっています。

このスカーフのことを「ドゥパタ」と言います。

インドは暑いのにドゥパタなんてつけていたら余計に暑いじゃないか、と私も旅行している時はつけていなかったのです。

ところが、実はドゥパタには重要な意味があったのです。

会う人、会う人につけろつけろと言われ続け、その理由を聞いたら、どうもただのエチケットではないようです。

ドゥパタをつけていないと、感覚的にはノーブラのような感じだそうです。

つまり胸のふくらみを隠すのが目的なのです。

インド人男性の感覚

インド人だけがすけべってこともないと思うんです。

ただ、特に田舎の方では、ほとんどの人が両親が決める相手と結婚するというシステムの中で、ふだん社会的に男性と女性は隔離されています。

恋愛なんて普通は許されません。

女性は家庭の中で守られていて、年ごろになると一人で外をうろついたりできません。

暗くなってから一人でうろうろしていたら、売春婦と間違えられます。

一人で旅行する女性は気をつけてください。

自分はただ散歩のつもりでも、向こうから見たらそういうことを望んでいるように思われるかも知れません。

インド人男性の中には、インド人女性に対してできないことでも、外国人、 特に日本人になら何でもできると思っている人がいます。

ビハーリーで 関西人(私のヒンディー語はなまっている?!)

ビハーリーで 関西人(私のヒンディー語はなまっている?!)

結婚する時に持ってきた一冊のテキスト。

最初の一ヶ月で必死に覚えました。

だって、お義母さんや兄 嫁さんたちはヒンディ語オンリーなんですから。

だんなさんは日本語ぺらぺらですが、仕事で寝るために帰って来るだけだし、毎日毎日家の中に監禁状態で、しかも兄嫁さんは二人とも超おしゃべり。

もう、がむしゃらに覚えるしかありません。

最初はまったくコミュニケーションが取れず、ボディランゲージを使っていたのが、1ヶ月、2ヶ月、3ヶ月と徐々 に通じるようになりました。

そして、1年経つと、どうも兄嫁さんたちの文法はおかしいと気がついたのです。

最初、自分のヒアリングが悪いせいかな、と思っていたのですが、兄嫁さんたちの言葉は、スタンダードなヒンディ語とはかなり違う。

ビハ-ル州の、ブッダガヤのこてこての方言だったのです。

それからは必 死で兄嫁さんたちの方言の法則を習得すべく努力しました。

そして、結婚して2年、めっちゃナチュラ ルなブッダガヤ語が話せるようになりました。

そんなある日、久しぶりのデリーでヒンディ語をしゃべったら、周りの人たちがおもしろがって「もっとしゃべって」と言うんです。

ちゃんと標準語でしゃべっ ているつもりなのに、文法は標準語でも、どうも発音が何となく「ビハ-リー(ビハ-ル人)」みたいだそうです。

やっぱり毎日方言の中で暮らしていると、ついついクセが出ちゃうんですね。

山形弁を話す外国の方がおられますが、私もインド人から見るとそん な感じなのかな?

日本では関西弁(京都生まれなんで す)、インドではビハ-ル弁、どちらでも方言を習得してしまいました。

インド嫁姑事情

インド嫁姑事情

世界中、どこでも同じですね、こればっかりは。

私の家も、それはもう激しい戦いが何度か繰り広げられました。

いえいえ、私は参加してないですよ。

私はみんなの意見を聞く役です。

お義母さんと、上の兄嫁さん、そして2番目の兄嫁さんがそれぞれ三つ巴なんです。

始まりはいつもたわいのないことからなんですよね。

例えば、よく食器を落とすとか。

大事にしていた鳥を檻から出したとか。

でも、それがきっかけで 普段からの不満が大爆発!

しかもインド人は声がでかい。

アクションもオーバー。

けたたましく泣き叫ぶので、ご近所さんも集まってくるし、、、。

お義母さんが「出て行け!」と言っても、兄嫁さんたちは絶対実家に帰ったりなどはしません。

それは一番恥ずかしいことだからです。

不思議なことに何日かすると何事もなかったかのような平穏な日々がまたやってきます。

そして、何かお祭りがあると仲良く歌を歌ってるんです。

うーん、ま、いいか。

爆発ディワー リーのお祭り

爆発ディワー リーのお祭り

ディワーリーというお祭りがあります。

ディワーリーまたはディバワリーと言います。

毎年9月~10 月の間に行われます。

ヒンドゥーカレンダーに基づくので、毎年日にちがずれます。

灯明のお祭りで、小さい器に紙のこよりと油をいれ、火を灯します。

それを家中特に外に面した所に置いて、ずっと消えないように、何時間か置きに油を足して回ります。

子供達は木などで小さな家を作り、それを祭壇のようにして いろいろ儀式をします。

それが終わったら屋上で爆竹の投げ合いです。

子供達もきゃーきゃー言って走り回り、兄嫁さんたちはお互いに爆竹を投げ合うし、こっ ちにも投げてきます。

本気で怖かったです。

私も負けずに 参加しようと、爆竹に火をつけましたが、投げるのが遅くて指の先で爆発!

やけどはしなかったけど、痛かった!

女性と子供達が家の中で大騒ぎしている時、男性達は仲間同士集まって、朝までお酒を飲みながらトランプでギャンブル。

いつもお祭りは女性と子供がメインで、男性はお供えのお下がりをもらうだけ。

それ はたぶん、大家族は一つの家で暮らしているので、若いお嫁さんたちの顔を見ないようにということ と、いつも家の中にいる女性達のストレスの発散をさせるため?かな?

停電

停電 (2000年ごろ)

一日の半分は停電です。

雨期はとくに多くて、雨が降りだすとすぐに停電になります。

雨期の雨はとても激しいので電線が切れて、それに人や動物が当たって感電するという事故が よく起こるから、大雨になりそうになると発電所の方から電気が止められます。

雨期は夕方から 大雨になることが多いので夜はよくろうそくやランプを使います。

うだるような暑さの中、 停電の闇の中で子供達と歌のしりとりをしたり、ランプの明かりで影絵をしたりしています。

プレゼント事件

プレゼント事件

結婚式の後、私の両親はブッダガヤの家族へのプレゼントの仕分けをしようと言い出しました。

兄嫁さんにはタオルと石鹸と、、、この子には ティーシャツをというふうに一人一人に分けて並べていました。

すると、隣の部屋で友達と飲んでいただんなさんが来て、その様子を見て怒り出しました。

「どうしてそんな失礼なことをするんだ。 家のボスはお母さんだ。お母さんがこの人にはこれが必要だということが一番わかる。 あなた達が一人一人に渡すのはとても失礼だ。お母さんを無視している。誰に何を 渡すかはお母さんが決めることだ。」とぷんぷんです。

私と両親は訳がわからなくて、せっかくプレゼントを持ってきたのに、どうして怒られなくちゃならないんだろうと思いました。

この時が最初の日本文化とインド文化の衝突でした。

両親は一人一人に対して何がいいか考えて持ってきてくれましたが、インドにはそんな習慣はありませんでした。

インドは大家族文化の中で、経済的な長はお父さん、家の中の長はお母さんというように ボスとしての役割が強いのです。

また、たくさんの嫁たちを従わせるために、物資の配給という お母さんの役割は権力を保つために必要なのです。

そのため、インドではプレゼントはすべてお母さんが受け取り、お母さんがそれぞれに配分します。

そのおかげで家族という 群れの統率が取れるのです。

<インド花嫁のオキテ>サリーなど身だしなみのオキテ

*毎日サリーを着る。(毎日洗濯したもの) インド花嫁のオキテ

田舎では結婚したらオンリーサリーです。

私は日本人だからということでたまにパンジャビスーツを着 ていますが、普通はサリーのみです。

まだ一枚しかサリー を持っていないころに、同じサリーを2日続けて着ていたら、お手伝いの女の子が「だめ~!一度ぬい だら新しい(洗濯した)サリーしか着ちゃダメ」と絶叫し ました。

確かに汗をいっぱいかく、こんな熱い国だから、衛生的に理にかなっています。

感覚的には、 同じ服を2日着るより、破れている服に着替えるほうがいいらしいです。


*花嫁は2~3年は赤いサリーを着る。 インド花嫁のオキテ

赤は花嫁さんの色。

黒いサリーを気に入って買ったのですが、2年がまんしました。

逆に白はお葬式の 色で花嫁さんは絶対に着てはいけません。

だんなさんが亡くなったら、真っ白、もしくは地味なサリー を着ます。


*外出する時は、シンドゥール、マンガルスーツ、 チュリー、ビンディー、 ピアス、指輪(アングッティ)、足の指輪(ビチヤ)、 アンクレット(パイヤル)、腕時計を忘れるべからず。 インド花嫁のオキテ

シンドゥール(額につける赤い粉)、マンガルスーツ(結婚の象徴のネックレス)、ビンディー(眉間 につけるシール)、ピアス(両耳と鼻(左))、指輪、ビ チヤ(足の指輪)、パイヤル(アンクレット)はもちろん毎日必ず身に付けます。

でも外出の時は特に厳しくチェックされます。

一度、腕時計が止まっていたの でつけないで出かけようとすると、壊れていてもいいからつけなさいと言われました。

腕時計を持っているということは一つのステイタスのようで、「出かける 時は忘れずに」なんだそうです。

<インド花嫁のオキテ>家の外に出るべからず

*孫ができるくらいまで一人で一歩も家の外に出るべからず。インド花嫁のオキテ

なぜか?

それは、孫がたくさんできるくらいになると、一人で外へ出ても、レイプされる心配や浮気を することもあまりなくなるからです。

つまり、結婚した女 性を家の中に閉じ込めておくのは、守るということと、浮気防止の意味があるのです。

もちろん、これは田舎の中流以上の家庭の文化で、貧しい家庭の女性は外に働きに出ますし、高い教育を受けた都会の女性も仕事を持つことがあります。

兄嫁さんたちにどうし て外に出ないの?と質問したら、「家にいるのが好きだから。洗濯や食事の準備で忙しいし、この家のしきたりだし、自分の母親たちもそうしてきたから。外を 一人で歩くのは恥ずかしいことだ。」と言いました。

でも、本心はやっぱり外に行きたいみたいで、あるお祭りの日に兄嫁さんがみんなでお寺にお参りに行こうと提案したのです。

ところが、もう一人の兄嫁さんが出産直前ということと、人がたくさんいすぎるという理由で、お義母さんは許しませんでした。

みんなで 外に出かけるチャンスも1年に1~2回しかないので兄嫁さんは泣いていました。


*窓から外をのぞいてはいけない。 インド花嫁のオキテ

結婚して2~3年はあまり人に顔を見せてはいけないのです。

若いから?それもありますが、人に見られると、悪い魔法にかかると言われました。

この手のしてはいけないことってきりがないくらいたくさんあります。


*昼間は屋上に上がってはいけない。 インド花嫁のオキテ

窓から~と同じく人に姿を見られないようにということです。

もし屋上にいるところを通りがかりの男 性に見られたら、もしかすると目をつけられて誘拐されたり、、、ありうる話なんですよね、これが。


*年上の女性の前では頭をサリーで隠す。 インド花嫁のオキテ

尊敬の意を表しているのだと思います。

何度も言いますが、これは田舎の習慣です。


*年下でも若い男性の前では肩をサリーで隠す。 インド花嫁のオキテ

もちろん、子供は含みません。

20代からの若い男性とは話はしてもOKですが、肩は隠さなくてはい けません。

<インド花嫁のオキテ>顔を見せるべからず

*だんなさんのお兄さん、お父さんに顔を見せるべから ず。 話してもいけない。インド花嫁のオキテ

結婚式の日から突然、お兄さんやお父さんに顔を見せたり、しゃべってはいけない と言われました。

そういえば、それまででもお兄さんは日本語ぺらぺらなのに、全然 話をしなかったなと思いました。

一つの家に住むので、若い年下の女性である弟の嫁に 目移りしないためのルールだと思われます。

お兄さんが家にいる時はトイレに行くのも 大変です。廊下にお兄さんがいないことを確認して走ります。

もし途中でお兄さんが 出現したらとりあえずすぐ近くの部屋に隠れます。

そしてお兄さんが行ってしまうまで じっと身をひそめます。

廊下に出る時はサリーで頭を隠しているのですが、その姿も 見られてはいけないのです。

ずっとおにごっこをしているみたいです。

私のだんなさんには 2人のお兄さんがいるので大変です。

長男のお嫁さんはお義父さんにだけ気をつければいいのです が、三男、四男、五男の嫁はもう大変。

ちなみに、長男の嫁は「バルキー」、次男の嫁は「マンジュリー」、 三男の嫁は「サンジュリー」と言います。

ですから、一番目の兄嫁さんのことを 「バルキーバービージー」、二番目の兄嫁さんのことを「マンジュリーバービージー」と 呼んでいます。


*だんなさんより年上の男性に顔を見せるべからず。 インド花嫁のオキテ
お兄さんやお父さんだけでなく、年上の男性全般に顔を見せないようにします。

お客さんが来た時も、それがだんなさんより年上の場合は隠れます。

その人より 年上の女性、もしくは子供達に食事やチャイを運ばせます。

結婚式の時、親戚みんなで ビデオに写ろうということになりましたが、お義母さんはなかなか部屋に入りません。

それは、親戚の中にお義母さんよりも年上の男性がいたからです。

だんなさんの14歳だった妹が新しい学校に入学する時、その学校の先生が面接に来ました。

私はもちろん立ち会うつもりで待っていましたが、先生が家に到着したとたん、私だけ違う部屋に 呼ばれました。

先生は年上の男性なので先生が帰るまでここに隠れていなさいと言うのです。

先生は教育を受けている人だからだいじょうぶ、とむりやり面接をしている部屋に入りました。

先生も最初はびっくりしたものの、英語でしゃべってくれました。

その先生は一時期妹の家庭教師として家に来てくれました。

お義母さんは「男の先生とアルカが二人きりでは心配だから、あなたもいっしょにいて欲しい」と 言うので、私も授業に参加し、ヒンディ語まで教えてもらいました。

<イ ンド花嫁のオキテ>女性は最後に食べるべし

*女性は最後に食べるべし。 イ ンド花嫁のオキテ

インドの田舎では食事は男性が最初に食べ、子供たちが食べ、そしてその残り物を 女性が食べます。

インド女性は世界で一番寿命が短いとどこかで聞いたことがあります。 私の家ももちろん男性、子供、女性の順番です。

インド人は昼食を家に食べに帰る人が 多いのですが、私の家もそうです。

お父さん、お兄さん2人、そしてだんなさん、20歳の 弟のうち、全員が食べ終わるのを見届けてから、女性たちが食事をします。

一人でも 仕事の関係などで帰ってこないと、その食事は抜きになります。

家族24人分の食事を 作っている2番目の兄嫁さんは一番ハードな仕事なのに食べません。

食事を抜くのは 体に良くない、食べようと言っても、やはり誰もその習慣を破りません。

とくにインド人は 時間があってないようなものなので、昼食といっても3時4時になり、男性たちが帰宅 するのは夜中でそれから夜ごはんになります。

そんなのにつきあっていたら体を壊してしまうので、最近は私一人、日本にいる時の時間の間隔で毎日同時刻に3食しっかり食べています。

インドの花嫁失格かな?

<インド花嫁のオキテ>シンドゥール・マンガルスーツ・チュリー

*シンドゥールは毎朝必ずつける。 インド花嫁のオキテ

シンドゥールとは、結婚した女性が額につける赤い粉のことです。

額の髪の生え際で、 ちょうど分け目の所につけます。結婚式の儀式の中で、新郎が新婦の額に初めて シンドゥールをぬります。

その時は、囲いをして、周りに見えないようにします。

田舎では、結婚して一年間は、少しオレンジがかった赤色のシンドゥールを使い、 一年たったら、深い赤色のシンドゥールを使います。

生え際から上に向けて5センチ位 たっぷりとつけます。

お風呂で頭を洗った後はシンドゥールが落ちてしまっているので、つけるまでは誰にも顔を見せられません。

一方、都会の方では、結婚しても必ずしも シンドゥールをつけなくてはならないということはありません。その人の自由です。

デリーであんまりたくさんつけていたら、田舎ものだと笑われました。

ブッダガヤに 帰るともっとつけなさいと言われます。ですから、都会ではほんの少しだけつけて、ブッダガヤに着く直前にたくさんつけるようにしています。

シンドゥールはだんなさんが 生きている限りつけます。

シンドゥールをつけているということは結婚しているという証ですが、都会の教育を受け自立している女性たちは男女差別の一例としてあえてつけなくなっているようです。

*マンガルスーツはだんなさんが生きている限りはずす べからず。インド花嫁のオキテ
マンガルスーツは、結婚した女性が身につけるネックレスです。

それはいろいろな 素材のものがありますが、一般的には金と黒い小さな石のものが多いようです。

生活レベルによってそれぞれのネックレスを花婿が花嫁に送ります。

マンガルスーツは だんなさんが生きている間は一生見につけなければならず、修理に出している時などは 人前に出ることができません。


*チュリーをつけずに水も食事も取るべからず。 インド花嫁のオキテ

チュリーは、細いガラス製の腕輪のことです。

これも結婚した女性がつけます。

独身の女性がたまにおしゃれでつけることもありますが、つけるのは1~2個くらいです。

結婚した女性は6~10個ほどつけます。

結婚して1,2年は赤いチュリーが主です。

7月から8月の雨期のシーズンには緑色のチュリーをつけます。

雨で草木が生い茂る緑の シーズンだからです。

サリーやパンジャビスーツも緑色の人が増えます。

インド人女性は 手の骨が細いので腕にぴったりのサイズですが、日本人の私は一回り手が大きいようで、 いつも一番大きいサイズのチュリーにします。

私は寝ている間は壊してしまいそうで外して 寝ますが、本物のインド人はつけたままです。

チュリーが自然にほとんど壊れてから新しい チュリーをつけます。

兄嫁さんはチュリーはだんなさんへの愛情だと大切にしています。

ある日私はうっかりチュリーをつけるのを忘れたまま朝食を食べていました。

そこへ 兄嫁さんが水を持ってきてくれました。

すると、なんてことをしてるんだとしかられました。

「私達はチュリーをつけないと一口も食べないし、チャイも水も飲まない」と。

<インド花嫁のオキテ>結婚後、だんなさんの名前は一生言わない

*結婚後、だんなさんの名前は一生言わない。 <インド花嫁のオキテ>

結婚前は、欧米式に呼び捨てにしていただんなさんの名前。

結婚後も 同じように呼んでいたところ、周りにいた人たちは変な顔をします。

兄嫁さんたちに聞くと、結婚したらだんなさんの名前は決して口にしては いけないということでした。

先に教えて欲しかったと言ったら、 日本もそうだと思っていたそうです。

テレビもほとんど見ない兄嫁さんたち、 日本の文化が自分たちの文化とどう違うのかまだあまり知らないようでした。

数ヶ月後、日本大使館に行った時、だんなさんの名前を聞かれたのですが、 絶対一生言ってはいけないと言い聞かされていた私は言うことができませんでした。

それで代わりに名刺を見せて、これが主人の名前です、と言ったところ、 怪しまれてしまいました。

日本に里帰りをして、友達にだんなさんの名前 は?と聞かれた時、精神的ショックから声にできませんでした。

だんなさんは、「あなたは日本人だから日本にいる時や二人だけの時は 名前を言ってもいいよ」と言ってくれたのですが、兄嫁さんやお義母さん の真剣な言葉を思うとなかなか言えません。

少しずつリハビリ(練習)して、 ワンテンポおけば言えるようになりました。

もちろん、インド人の前では 今でも言いません。

代わりに「メレパティジー」(私のだんなさん)と 言います。

ところが、ある日デリーでアーユルベーダのエステを受けていた 時のことです。

エステティシャン二人といろいろ話をしていて、 「だんなさんの名前は?」と聞かれました。

「インドのしきたりだから 言えない」と言ったら、若いエステティシャンは、「そんなのがあるの?」 と年上の人に聞いたのです。

その年上のエステティシャンは「昔はそうだった のよ。今でも田舎では言わないけれど」と言うのです。

私は愕然としました。

日本人である私が必死で守っているのに、列記としたインド人であっても デリーのような都会に生まれ育った若い人は知らなかったのです。

それから友達になったデリーの人たちはやはりみんな平気でだんなさんの 名前を口にします。

ブッダガヤでは絶対できません。

インドはとても広くて たくさんの人種や宗教や文化があって、貧富や都会か田舎かの差が大きくて 、なんだか大昔と現代の時空が入り乱れて一緒に存在しているようです。

ちなみにインド人全般に言えることですが、年上の名前はできる限りいわず、 どこどこのおじさんとか、なになにちゃんのお父さん、という言い方をします。

結婚後女性は電話で自分の名前を名乗ってはいけません。

なになにちゃんの お姉さんです、と言います。(都会はもう変わっていますが。)

インド花嫁のオキテ

インド花嫁のオキテ

結婚式の後、私はインド人になりました。国籍はもちろん日本人のままだけれど、家族みんなからインド人として扱われました。赤ちゃんに一から教えるように、インド人はこうするんだよと教えてもらったのです。
前の日までパンジャビスーツでうろうろしていた日本人は、結婚式を境に、サリーを着たインド人になりました。
注)ここに挙げるオキテはブッダガヤの 中流家庭のものであり、インド全部に当てはまるわけではありません。 
* 結婚後、だんなさんの名前は一生言わない。
* シンドゥールは毎朝必ずつける。
* マンガルスーツはだんなさんが生きている限りはずすべからず。
* チュリーをつけずに水も食事も取るべからず。
* 女性は最後に食べるべし。
* だんなさんのお兄さん、お父さんに顔を見せるべからず。 話してもいけない。
* だんなさんより年上の男性に顔を見せるべからず。
* 孫ができるくらいまで一人で一歩も家の外に出るべからず。
* 窓から外をのぞいてはいけない。
* 昼間は屋上に上がってはいけない。
* 年上の女性の前では頭をサリーで隠す。
* 年下でも若い男性の前では肩をサリーで隠す。
* 毎日サリーを着る。(毎日洗濯したもの)
* 花嫁は2~3年は赤いサリーを着る。
* 外出する時は、シンドゥール、マンガルスーツ、チュリー、ビンディー、 ピアス、指輪(アングッティ)、足の指輪(ビチヤ)、 アンクレット(パイヤル)、腕時計を忘れるべからず。 

2013年9月11日水曜日

テロの思い出

実は、私自身がテロに巻き込まれたことはないのですが、家族の目の前でテロが起こったことがあります。
 
http://en.wikipedia.org/wiki/29_October_2005_Delhi_bombings
 
2005年10月、ディワリのお祭りのころ、デリーのサロジニナガルで爆発が起こりました。
 
当時、長男が5歳になり、デリーで幼稚園に入園させるため、デリーに住み始めたころでした。
 
その日、テレビでニュースを見ていて、ほぼライブでテロのニュースを見ました。
 
主人はディワリのお祭りのため、知り合いのガイド仲間とお酒を飲んでいました。
 
その場所が、テロが起こったサロジニナガルのすぐ近くだったのです。
 
慌てて主人に電話をかけましたが、携帯はスイッチオフになっていました。
 
その夜、主人にずっと電話をかけながら、翌朝まで一睡もせず安否を心配していました。
 
結局、翌朝10時ごろ、主人がひょっこり帰って来ました。
 
「携帯つながらなかったけど、テロ、大丈夫だった?」と聞くと、「ああ、テロだねえ。ごめん、保険屋がうるさく電話かけてきたから、携帯切ってた。」というのん気な主人の返事に拍子抜けしたのを覚えています。
 
お祭りだから、家族へのプレゼントを買いにサロジニナガルのマーケットに行っているんじゃないか、と心配した自分がバカらしく思えました。
 
http://en.wikipedia.org/wiki/13_September_2008_Delhi_bombings
 
2008年のデリーのテロでは、弟が間一髪で助かりました。
 
当時同居していた主人の末の弟ラジーブは、日本語の専門学校に通っていて、その日もコンノートプレイス近くの学校から帰宅途中、いつものようにメトロ(地下鉄)のほうへ歩いていました。
 
すると、突然、目の前で爆弾が爆発しました。
 
慌てて、走って行くと、その先でもまた爆弾が爆発しました。
 
そして、まだ動いていた地下鉄の電車に飛び乗って、命からがら家に戻りました。
 
電車の中で心臓がバクバクして、手の震えが止まらなかったそうです。
 
http://en.wikipedia.org/wiki/2008_Mumbai_attacks
 
ムンバイのテロの起こったタージホテルに、実はテロの起こる3ヶ月前に私たち夫婦は立ち寄っていました。
 
ムンバイの親戚の家に行って、途中お茶を飲みに立ち寄っただけでした。
 
お茶を飲みながら、「誰でもこんな高級ホテルに入れるし、目の前は海だし、海からテロリストかパキスタンの軍隊でも攻めてくるかも、、、。しかも、すぐ近くはムスリムがいっぱいいる町(テロリストの隠れ家になるという意味)だし、、、。」と考えながら、怖いな、と思っていました。
 
その3ヵ月後に、まさにその場所でテロが起こり、ニュースを見て背筋が凍る思いがしました。



テロが頻繁に起こっていたころ、買い物に行く時、娘がついていく、と言いました。私は「ニュース見たでしょ!バザール(マーケット)に行って爆弾が爆発したら死んじゃうから、家にいなさい。」と娘に言いました。
すると、娘は、「マミーもくうばあちゃんの子供やん。マミーも死んだらあかんやん。」と言いました。
眼からうろこでした。
自分は死んでもいいけど、子供は死なせたくない。
と思っていましたが、自分も母の子だった、という視点を娘は与えてくれました。
娘はそのころ、5歳くらいだったと思います。
インド人はテロが起こっても外出を控えたりしません。
すべての事象は、神様から与えられた自分の人生のストーリーに書かれていれば起こるし、書かれていなければ起こらない。
インド人は、スーパーポジティブ思考。
究極の天然のーてんきなのか、諸行無常を達観した不動の境地なのか、、、。
テロで犠牲になった場合、戦死したというような認識です。

2013年9月10日火曜日

ブッダガヤで7月に起こったテロについて

ブッダガヤで7月に起こったテロについて

2013年、7月7日、早朝、ドーン!ドーン!という大きな音で眼が覚めました。前日、パトナからブッダガヤへ4時間かけて車で移動していたので、疲れていてぐっすり眠っていたにもかかわらず、眼が覚めてしまうくらい大きな音でした。エレクトリシャン(電気技師)がエアコンでも落としたのかな?(窓に埋め込み式の大きなエアコン)とか、結婚式の行列が夜到着できずに朝到着したのかな?(結婚式の際、爆竹や打ち上げ花火をするので、爆音に慣れてしまっています)などど考えながら、また眠りにつきました。

そして、普段通り起床し、朝の身支度をしていると、スタッフから電話がありました。ヒマラヤの友人から電話があり、「ブッダガヤでテロが起こったそうですが大丈夫ですか?!」というメッセージをもらいました。「まさかっ?!?!?!」と思いつつ、テレビをつけると、見慣れたマハーボディ寺院の映像が、、、!コルカタの友人も電話をくれ、安否を気遣ってくれました。自宅としているマハマヤホテルからマハーボディ寺院は徒歩一分、まさに目と鼻の先。そんな近くにいて、テロだと気付かない、爆音に慣れすぎた自分にびっくりしました。

それから数日、インド中からジャーナリストが駆けつけ、マハーボディ寺院の周りは中継者だらけになりました。当日午前中、ビハール州知事ニティッシュ・クマールが現場を視察しました。そしてソニア・ガンジーや内務省の大臣まで、続々と要人が視察に訪れました。要人が次々に現地を訪問するので、地元警察は要人警備の対応でてんてこ舞いでした。NIA(テロなどを取り締まる特別警察)の捜査チームは、なんと、天候不良のため、ガヤ空港に降りられず、コルカタへ引き返した、というニュースもありました。

デリーやムンバイなどの都市は、常にテロの危険があるため、テロリストに対する捜査は徹底していて、対テロの特殊警察は非常に優秀だという印象があります。しかし、いざ、予想外の場所で起こった場合の対処の遅さに、今更ながらびっくりしました。
実は、予想外と言っても、昨年からブッダガヤが狙われている、という情報は発表されていて、現地的にはマハーボディ寺院の警備を厳重にしているつもりだったようです。
もともと金属探知機も壊れていて作動していなかったり、CCTVカメラの映像を見る機器も整っていなかったり、外国人の私からすれば、アゴが外れそうな、あまりにもインド的な状況だったのでした。
ここ数年、ビハール州は平和になりすぎて、警察もゆるくなってしまっていたのかも知れません。
私が嫁いだ頃は、ゲリラが多く、警察も緊張感があったように思います。

現在、NIA(http://en.wikipedia.org/wiki/National_Investigation_Agency)が中心となって調査続行中です。テロ組織などから犯行声明が出ていないこと、爆発物が小規模なものであったこと、置いてあった場所が寺院や仏像を直接破壊する場所でなかったこと、爆発した時間帯が人が少ない時間帯であったこと、ブッダガヤの複数の場所に爆弾を設置していたのでローカル情報に詳しい人物が関わっているだろうということなど、地元ではイスラム系テロ組織のやり方としては不可思議なことが多いという意見が多く、州政府に反対する政治組織などがテロに見せかけて仕組んだのではないか、など様々な推測が飛んでいます。

マハーボディ寺院は、テロの数日後から寺院を通常通り開放しています。事件の影響で、海外からの巡礼者の数は少なめですが、徐々に通常とおりに戻りつつあります。事件後、寺院周辺やゲートの警察官が増員され、寺院へ入るにはボディチェックを受けるようになっています。また、携帯やカメラは持ち込み禁止になり、ゲートで預けるようになっています。

テロ事件後、行政は寺院周辺の安全確保に力を入れており、以前から立ち退きを要請していた寺院手前の土産物店などに、再度立ち退きの通告を出しています。

今回の事件をきっかけに、インド中央政府もブッダガヤの安全や発展のために力を入れるようになりました。世界遺産のある国際観光都市として、開発に拍車がかかりそうです。

地元の人間の感覚として、実は、テロが起こった場所は、2年間くらい、すごく安全なんです。警備が厳しくなり、再びテロを起こすのが難しいからです。

ということで、今、ブッダガヤ、特にマハーボディ寺院は安全な状態です。ご心配いただきました皆さんどうかご安心ください。

テロの爆発で負傷された僧侶のお二人の早い回復をお祈りいたします。


 以下、AFP通信より転載___________________________

http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2954694/11014456

【7月8日 AFP】インド東部ビハール州(Bihar)の州都パトナ(Patna)に近い仏教の聖地の1つ、ブッダガヤ(Bodhgaya)で7日、複数の小規模な爆発が発生し、僧侶2人が負傷した。歴史的寺院には被害はなかったという。地元警察が発表した。
 紀元前531年に仏教の開祖、釈迦がその下で悟りを開いた菩提樹があるとされるブッダガヤの大菩提寺には、世界各国の仏教徒が訪れる。ビハール州の警察署長はAFPに対し、「神聖な菩提樹は無事で、損傷は受けていない」と語った。
 警察幹部のS. K. バラドワジ(S. K. Bharadwaj)氏によれば、「7日早朝に小規模な爆発が8回連続して発生し、2人が負傷した」という。また、この他にも2つの爆弾が見つかり、寺院の敷地内で信管を取り外す処理が行われた。その1つは、高さ24メートルの有名な仏像の近くにあったという。
 マンモハン・シン(Manmohan Singh)首相は、国連教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産(World Heritage Site)にも登録されている寺院で起きた爆発を強く非難。「神聖な場所に対するこのような攻撃は、決して許されるものではない」と述べた。
 アニル・ゴスワミ(Anil Goswami)内相は爆発を「テロ攻撃」だとしているが、インドPTI通信(Press Trust of India)によると、現在のところ犯行声明は出されていない。
 インドでは、仏教徒に対する攻撃はまれだが、ミャンマーやスリランカ、バングラデシュでのイスラム教徒と仏教徒の衝突を受け、周辺各国でも緊張が高まっている。(c)AFP/Imran Khan
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卒業生、クリケッターを目指す!

8月29日、第一期卒業生プレームジート君を、隣の州、ランチーに送り出しました。
 
彼はこれからプロのクリケッターを目指してトレーニングを受けます。
 
クリケッターになるのは、彼の子供の頃からの夢でした。
 
IIT受験塾に通う彼が、クリケッターのトレーニングを受けることは、賛否両論で、教師たちとも話し合いをしました。
 
勉強は一度離れてしまうと、再度ついていくのが大変だからです。
 
せっかく12年生まで勉強に励んで来た努力も、六ヶ月のトレーニングの間に勉強が遅れてしまいます。
 
「今が最後のチャンスなんです」と言って、彼は私の所へ何度も相談に来ました。
 
校長と相談し、クリケットのテストをして、彼が校長に勝ったらトレーニングに行くことを許可しよう、ということになりました。
 
クリケットのテストをした結果、、、、校長先生が勝ってしまいました。
 
私も校長も、これで諦めがつくだろうと思っていました。
 
ところが、彼は諦めませんでした。
 
トレーニングの申し込み期限の二日前まで説得に来ました。
 
私は彼の情熱に負けました。
 
トレーニングの許可を出す代わりに、条件を付けました。
 
ランチーでも塾に通い、勉強も続けること、という条件です。
 
プロになれるのは、ほんの一握りしかいないこと、六ヵ月後、上のリーグへのテストで落ちることもあるということ、現実の厳しさについて話しました。
 
彼は、初めて親元を離れて、自分で下宿を探し、塾も見つけました。
 
トレーニング代は驚くほど安かったのですが、それでも彼の家族の一ヶ月の生活費の半分かかります。
 
衣服を運ぶバッグも、教師から借りました。
 
教師たちは私が彼に許可を出したことを、優しすぎると思ったと聞きました。
 
でも、実際は、私は彼に現実の厳しさを学んでもらいたいのです。
 
夢を夢のままにしておくよりも、夢を実現しようとして、失敗してしまうことのほうがよほど心に負担がかかります。
 
夢のままにしておけば、いろいろな条件を理由にして自分の実力をごまかすことが出来ます。
 
自分自身、夢に向かって何度も挑戦し、何度も挫折した経験があります。
 
それらは痛い思い出ですが、人生の足腰を鍛えるいい機会になったと思っています。
 
どんな状況でも最善を尽くして、もし傷ついても、また前を向いて進んで行く、そんな強い人になってほしいです。
 
6歳のころから見ているので、ほとんど母親のような気持ちで送り出しました。