2016年2月7日日曜日

今春卒業予定の10年生たち。受験目前、最後の授業の日。

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2015年2月6日、今日はスーリヤ・バハルティ・スクールの10年生たちの最後の授業の日でした。
授業の様子を見に行くと、「マダム、歌歌って~!」「君達が歌ってよ!」と、歌合戦が始まりました。
まず、やはり最初は歌が得意なクンダンからスタートしました。そして、女子、男子、女子、男子、と代わる代わる歌を歌いました。

途中、その時間の担当だったアニル先生も歌を披露してくださいました。最初はすごい勢いで断っていたのに、生徒が「あの歌歌って!」と何か歌のタイトルを言うと、喉を整えて、急に歌いだしました。そして、通りがかりの先生方を捕まえては歌を歌ってもらいました。
ディベンドラ先生、アムレンドラ先生、校長のミトレッシュ先生、そして、ディレンドラ先生も歌ってくださいました。それから、バハルティ先生ももちろん歌ってくださいました。

授業終了の鐘が鳴ると、「最後はクンダン!」ということで、クンダンが歌い、それに合わせてタブラが出来るビカッシュが机をたたいてリズムを取りました。

歌が2番に入ると、それまで拍手と歓声でにぎやかだった生徒たちが急に静かになりました。
前のほうの席の女子たちが机に顔を伏せています。
彼女たちの腕の隙間から見えた顔には涙が流れていました。
私は思わず貰い泣きしてしまいました。

今日は10年生たちのスーリヤ校での最後の授業の日。
明日からは3月の受験に向けて自宅学習をします。
日本のセンター試験のようなものです。(CBSEインド中央政府主催の試験)

9年生以下の生徒たちが下校した後、10年生のみんなと記念撮影をしました。
これまで学んで来た実力が出し切れますように、、、!
彼ら彼女らの受験成功を祈っています。


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2016年2月6日土曜日

ブッダガヤ母子保健プロジェクト 2月2日 村の保育所

ブッダガヤ母子保健プロジェクト

2月2日 オウラ村
2 Feb. 2016 Mothers & Infants Health Care Project


オウラ村で今回話題になったのは、「年子と避妊方法」、そして「産後のお腹引き締め」、それから「3ヶ月間体重・身長の増加が見られない赤ちゃん」です。そして「村の保育所」についてです。

「年子と避妊方法」

生まれて一ヶ月の赤ちゃんを連れて来たお母さんに、何人お子さんがいるか尋ねると、この赤ちゃんが4人目だと言いました。子供達の年齢を聞くと、4歳、3歳、1歳、0歳でした。ほぼ毎年出産しています。特に今回は一年の間に2回出産したのだそうです。

DSC_4845レイカ先生が「避妊はしないのですか?毎年出産していたら、体が弱りますよ。Tコッパーをつけたらどうですか?」と言いました。
お母さんは何のことか意味がわからないのか、ただ黙っています。
「コンドームは使わないのですか?」と聞くと、レイカ先生は「村の男性は誰も使いません。」と言いました。

卵管結紮手術を政府は推奨していますが、術後からずっと出血が止まらなかったり、体調を崩している人も少なくありません。男性のほうが手術が簡単なので、ご主人に手術をしてもらったらどうかと聞いたところ、女性のほうからはそれは言えないということでした。

DSC_4857それから、子供4人はみんな女の子です。男の子が生まれるまでは生み続けなくてはならないそうです。毎年だとお母さんの体が回復する暇がないし、育児も大変です。せめて2年から3年は間を空けるよう、アドバイスしました。

「産後のお腹引き締め」

一才くらいの赤ちゃんを抱っこしたお母さんに、レイカ先生が「妊娠中ですか?」と質問しました。確かに大きいお腹をしています。
「いいえ。出産して1年経ちますがお腹がそのままです。」とお母さんは答えました。

「帝王切開でしたか?」と私が質問すると、やはりそうでした。私のインドの知り合いは帝王切開の後、ずっとお腹が大きいままの人がよくいます。レイカ先生が「ベルトはしないのですか?」と聞きました。インドの田舎にも腹帯があるのか、と驚きました。これまで私は、腹帯を妊娠中も産後もつけている人をインドで見たことがありませんでした。売っているのも見たことがありません。

「3ヶ月間体重・身長の変化が見られない赤ちゃん」

DSC_48481歳くらいの赤ちゃんですが、ちょっと手足が細いので、これまでの記録を見てみました。すると、過去3ヶ月間、体重と身長が変わっていません。クリニックでの診察をお勧めしました。

このプロジェクトは、こういう赤ちゃんを発見し、健康状態を向上させるのが目的です。毎月の記録を通して、赤ちゃんの健康状態のことをお母さんたちに気づいてもらうのが目的です。

「村の保育所」

もう片付けて帰ろうか、という頃、大きな声が聞こえました。アンガンワリ(村の母子のための政府の世話人)が誰か女性に怒られていました。私は私達の活動に対して文句を言って来るのかな、と思い、すぐに飛んで行ってその女性と話しをしました。
その女性はアンガンワリの仕事のチェックをしている役場の調査官でした。私達のプロジェクトの活動について説明すると、「それはいいです。でも、このアンガンワリは全然仕事をしていないんです。」とおっしゃいました。

それからレイカ先生たちと一緒にお話しを伺いました。
その方の説明によると、アンガンワリの仕事は月曜日から土曜日まで、10時から2時まで、0歳から6歳までの乳幼児をセンターで預かり、簡単な学習をさせ、おやつやお昼ご飯を提供するのが仕事だ、ということでした。
他にはワクチン接種の時期に村中の親子に呼びかけることも仕事です。

私達がプロジェクトの仕事を始めるとビスケットと石鹸を配布するのでたくさんの親子が集まります。ところが、普段、アンガンワリのセンターには5、6名ほどの子供しか来ないそうです。
毎月月末にはその月の子供の誕生日会をするはずが、このセンターではかつて行われたことがないそうです。誕生日会をするのは、親子共に誕生日を記録すること、覚えていることの大切さを理解してもらうためだそうです。

その調査官は、アンガンワリのアシスタントの女性について、「アンガンワリがいてもいなくても、いつもちゃんと掃除したり子供達にご飯を食べさせてくれている。とてもしっかり仕事をしている。」と誉めていらっしゃいました。実は、それは私達も毎回感じていたことでした。

色々お話しをして、私達のプロジェクトはアンガンワリのお手伝いを兼ねているので、今後、アンガンワリのセンターの活動も、時々お手伝いさせていただくことになりました。




2016年2月4日木曜日

ブッダガヤ母子保健プロジェクト 1月28日 赤ちゃんの皮膚病

ブッダガヤ母子保健プロジェクト

NGOチルドレンエイドは、村のお母さんと赤ちゃんの健康向上を目指して「ブッダガヤ母子保健プロジェクト」の活動をしています。2ヶ所の村を毎月訪問し、1歳未満の新生児の体重・身長測定をし、妊婦の体重・血圧測定をしています。

2016年1月28日 ティルカ村

28Jan.2016 Mothers & Infants Health Care Project

DSC01330ティルカ村では、赤ちゃんの皮膚病が目立ちました。前回皮膚病がひどかった赤ちゃんの治療のため、NGOが運営する無料で診察してもらえるクリニックを紹介したところ、ほとんど治っていました。薬が切れたということで、もうしばらく続けたほうがいいとアドバイスしました。
他の赤ちゃんで皮膚病がひどい子がいたので、クリニックの受診を勧めました。原因を調べるため、お宅を訪問しました。


DSC01400その子の自宅 は村の普通の家のように、かがまないと入れない入り口があり、寝室は窓が無く真っ暗でした。衣服の洗濯をどこでしているのか尋ねると、道路を挟んで向こう側の村の共同ハンドポンプで洗濯をしている、ということでした。

DSC01399見に行ってみると、ハンドポンプ周辺は日陰になっており、横の溝と同じように低い場所に作られていました。汚れた水が常に溜まっていて、ここで洗濯をしたら、ばい菌をつけに来ているようなものだと思いました。

ハンドポンプの設置場所、設置の仕方、そしてそこからどう排水されるか、よく考えずに設置されたようです。排水溝も汚水やゴミが溜まっていました。

ビハール州政府は最近あちこちで上水道や下水道の工事をしていますが、実際に村々に行き届き、使用されるようになるには、、、かなり長い年月が必要だと思われます。

とりあえず、衣服を洗濯する際に水に混ぜる消毒薬を渡し、使い方を説明しました。

赤ちゃんの母親や祖母も同じ皮膚病になっていたので、クリニックで受診するようにアドバイスしました。


2016年2月2日火曜日

第一期卒業生アジャイの死

「アジャイが死んだこと、知っていますか?」
数日前、母子保健プロジェクトの仕事で村へ車で向かっている時でした。
プロジェクトにいつも参加してくれているバビータ先生が質問してくれました。

アジャイはバビータ先生の住んでいる村の隣の村に住む、スーリヤ校第一期卒業生でした。(2012年4月卒業)
「心のきれいな人は神様が早く天国に呼んでしまうんでしょうか?まだ小さい子供がいて、奥さんのお腹にも赤ちゃんがいるらしいんですよ。かわいそうに、、、」
バビータ先生は知っている情報を教えてくださいました。
工事現場で働いていて、感電してしまったそうです。

母子保健プロジェクトの仕事をしながら、いつも通り平静を装い、村の女性たちと会話していましたが、頭の中はアジャイのことがグルグル回っていました。

その話を聞いた夕方、隣の州で下宿しているビクラムが会いに来てくれました。
お祭りでもないのに、どうしたのかと思ったら、アジャイの家にお悔やみを言いに一日だけ急遽戻って来たのだそうです。ビクラムはアジャイと同じ第一期卒業生です。

私たちは顔を見るなり、アジャイのことをお互いに話し出しました。

ビクラムはアジャイの家に行って聞いてきたことを色々話してくれました。
アジャイは、現場監督が感電したところに、偶然接触して感電してしまったそうです。
現場監督はすぐに病院に運ばれましたが、アジャイは4時間ほどその場に放置されていたそうです。同じ村の出身者が工事現場におらず、家族にも連絡が出来なかったそうです。
事故から約4時間後、村の知り合いが車で病院のあるガヤ街まで搬送してくれたそうですが、途中でアジャイは息絶えてしまったそうです。

「アジャイには1歳半くらいの女の赤ちゃんがいます」
ビクラムは、アジャイの子はちょうど私の末娘と同じくらいだ、と言いました。
同じ第一期卒業生たちのほとんどがアジャイの家に集まってアジャイにお別れをしたそうです。
「マダム、、、、僕は後悔しているんです。つい一ヶ月ほど前、村でアジャイに会った時に、大学2年まで教育を受けたのに、ずっと労働者でいいのか、マダムのホテルで働いたらどうだ、って言っていたんです。今度塾が休みになったら、一緒に行って、マダムと社長に頼んであげる、って、話していたんです。僕がもっと早くホテルにアジャイを連れて来たら、、、アジャイがこっちで仕事をしていたら、、、あんな事故で死ななくて良かったのに、、、、。アジャイのお母さんは早くに死んで、だから、アジャイは早くに結婚させられた。結婚していなかったら、僕のようにまだ大学生だったかも知れない。」とビクラムは言いました。

私は胸が痛くなりました。アジャイの運命を方向づけたのは自分なのではないか、そんな思いが浮かびました。村の幼児婚の習慣を止めるため、法律で定められた結婚年齢まで結婚しないよう、いつも生徒たちに私は言っていました。そして、卒業前に結婚していたアジャイを、大学進学の奨学生には入れませんでした。そしてアジャイは工事現場で労働をすることになったのです。

私はその翌日、校長先生とレイカ先生、マドゥ先生と一緒にアジャイの家を訪問しました。
アジャイの家は、私達夫婦が2001年に学校を開校した建物から、池を挟んでちょうど裏側にありました。私たちがそちらへ向かっていると、私達を見て、手で顔を覆って泣き出した老人がいました。アジャイのお父さんでした。

お父さんが家へ案内してくれました。レンガ作りの素朴な、3畳ほどの小さな家です。お父さんが指し示した家の中には、膝を抱えてうずくまっている女性がいました。アジャイの奥さんです。

私が近づいて声をかけると、ワーッと大きな声で泣き出しました。私はかける言葉がなくて、ただただ背中をさすっていました。

年配の女性が赤ちゃんを抱っこして来ました。確かに私の末娘と同じくらいです。
「アジャイの娘さんですか?あなたはアジャイのお母さんですか?」と私は聞きました。
「私はこの娘(アジャイの奥さん)の母親です。アジャイの母親はアジャイが赤ちゃんのころに亡くなっています。」とその女性は答えました。

アジャイの赤ちゃんの名前を聞くと、「アルカです。」とお義母さんが答えました。
「偶然ですね。私の主人の妹も同じ名前です。」と私が言うと、「偶然じゃありません。アジャイはこの子に、その妹さんのようになってほしいと、名づけたんです。いつもスーリヤ校のことやマダムのことを話していたんですよ。」と言われました。私は胸がしめつけられるような感じがして、涙を必死で我慢しました。母親を早くに亡くしたアジャイは私のことを母親のように親しく感じていたのかも知れない。でも、私はアジャイを大勢の生徒の中の一人としてしか接していませんでした。

レイカ先生が「ちゃんとご飯を食べていますか?お腹に赤ちゃんがいるんでしょ?自分のためじゃなくて、赤ちゃんのために食べないとだめよ。」とアジャイの奥さんに声をかけました。

アジャイのお義母さんは「あれから全然食べないんです。この子(赤ちゃん)が熱を出しているのに、立ち上がることも出来ないから、私が医者に見せに行きました。」と言いました。

「もしかするとアジャイの魂が赤ちゃんに入って生まれてくるかも知れませんよ。大事にしてあげて。」というレイカ先生の言葉に、お父さんは驚いてまた泣き出しました。

お腹に赤ちゃんがいること、お父さんは知らなかったようでした。

「アジャイが4ヶ月の時、母親は病気で死んでしまいました。私は長男とアジャイを一人で育てたんです。」とお父さんは言いました。

まだ泣き続けているアジャイの奥さんに私は言いました。
「アジャイの子供二人は大きくなったらスーリヤ校に入学させましょう。あなたにも何か仕事をあげます。」

すると、アジャイのお義母さんは、「この娘は大学2年まで出ています。」と言いました。アジャイが結婚したのはスーリヤ校在校中でした。田舎の習慣で親どうしが早くに結婚させました。結婚してからもお互いに実家で学業を続けていました。アジャイはいつも電話で、「お義母さん、勉強は好きなだけ続けさせてあげてください。途中で止めさせないでください。」と言っていたそうです。

アジャイ自身、スーリヤ校卒業後、労働者として働きながら、大学2年生まで勉強し、奥さんの勉強も経済的にサポートしていたそうです。

「現場監督の巻き添えだそうですが、工事現場の社長は何か補償はくれるのですか?」と聞くと、
「お葬式の日はお金をあげる、と言っていました。でも、お葬式の翌日に一変して、お金を要求するなら、裁判しろ、と言われました。」とお父さんが答えました。裁判にはお金が大変かかります。アジャイの家にはそんな余裕はなさそうです。それがわかっていてその現場の社長は裁判しようと言ったのでしょう。

帰り際、近所のアジャイの友人がいろいろ話してくれました。
アジャイがスーリヤ校に通っていたころ、いつも朝、家族の朝ごはんを作ってから学校へ行き、学校から帰ったら畑仕事をして家族の夜ご飯も作っていたそうです。近所で人不足で困っていたら、自分の収入にはならないのに農作業を手伝ってくれたそうです。村で誰か病人が出たら、いつもアジャイが病院に連れて行ってくれたそうです。

子供が生まれてから、家族のために稼がなくてはと、農業だけでなく、工事現場で働くようになったそうです。最初はレンガやセメントを運ぶ労働でしたが、左官工事を手伝っている内に仕事を覚え、最近は職人として日給400Rs.ほど稼いでいたそうです。そんな矢先の事故でした。

「アジャイは子供のころ、友達に棒でたたかれました。でも、その友達をかばって、たたかれていない、と言うような、とても優しい子でした。」帰り道、校長先生はアジャイのエピソードを思い出し、いろいろ話してくれました。

私はアジャイの写真を探しました。いい写真があればご家族にあげようと、、、。写真の中でアジャイはいつも後ろのほうにいました。どの写真もほとんどが端っこかみんなの後ろです。彼らしい、控えめな性格がよく出ています。卒業式の記念写真では私の後ろにいました。

アジャイに、「奥さんと子供のことは任せて。安心して天国で待っていて。」と私は心の中で言いました。